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「日本映画学校OB牧場」
今村ワールドの仲間たち

1975年、横浜のスカイビルに映画学校を設立してから35年になる。 最初の専門学院は2年制で11年、後半の専修学校は3年制で25年、合わせて36年になる。いずれにしても、僕の中では今村さんのDNAを持った同一空間であり、映画をやろうが、農業をやろうが、同じ釜の飯を食った愛しい卒業生たちである。 卒業生と言ったが、初期の連中には60歳半の者も居て外見は71歳の僕と殆ど変わらない。 つまり、僕ら講師も学生だった者もいまや同じ今村ワールドの仲間たちなのである。 思えば、我々の学校は小さく家族のような集団だった。個々の経緯は違えども、何かの縁が在って今村ワールドに迷い込んできた流離人なのである。亡くなる一ヶ月前に病院を訪ねた時、「学生たちは、どうしてるかね・・」と、今村さんは遠くを見る眼で呟いた。混濁した意識の中で彼が何を見ていたかは知る由もないが、僕はいずれ、全国に散らばったOBたちが気楽に話し合える場を作ろうと思った。学校には正規な校友会があるので、敢えて非公式を表す「日本映画学校OB牧場」と、ふざけたクラブ名を付けてみた。 第1回は今年の卒業生たちと深谷シネマの竹石君を訪ねて大いに楽しんだ。 願わくば、全国に散らばっているOBたちの気楽な歓談の場になれば幸いである。

(2010.7月 武重記)

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Film-48.png第14回・平田弘次】

今年、創立36年を迎えるイマムラ・スクール。
横浜駅東口スカイビルから始まり、日本映画学校へと変貌し、遂に来たる4月、日本映画大学に生まれ変わって新たな進化の道を歩み出します。
OB6000人の年輪を刻むサイトに、ようこそ!
今回の第14回「日本映画学校OB牧場」は第4期横浜放送映画専門学院OBの漫画原作者・平田弘次さんに登場していただきます。

エロ事師 見参!

平田弘次さん
漫画原作者&編集プロダクション経営
三重県鈴鹿市出身

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平田弘次さん
横浜4期 脚本科 馬場ゼミ

親に「映画をやるのに金は出せない」と言われ、朝日新聞奨学生になり入学。その当時、朝日新聞奨学生は一つのクラスに入れられ、その1年の担任が武重邦夫先生だった。

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当時の武重邦夫先生(30代!)

新聞奨学生で一番辛かったのは、毎週各1日ずつ、洋画観賞の後に淀川長治先生、邦画観賞の後に佐藤忠男先生の講義があったのだが、夕刊を配達しなければならなかったので、その授業に出られないことだった。何だか取り残されて行くような気がして、それを取りかえそうと、夕刊のない日曜は朝から晩まで映画を観ていた。
また、その当時は入学してすぐに「田植え」の授業があったが、新聞奨学生は参加出来なかった。別に田植えをしたかった訳ではなかったが、田植えから帰って来て「辛かった」とか「二度と行きたくない」などという他のクラスの学生たちの話を耳にするたびに嫉妬したものだ。
武重先生に言われた言葉で、今でも覚えている言葉がある。「お前らは競馬のハンデ戦の馬だ。新聞配達というハンデを背負っているから早く走れないが、ハンデがなくなれば早いんだ」その言葉に随分救われた。

入学当初は映画監督を目指していたが、1年の夏休みに書いたシナリオが馬場当先生に褒められ、いつしかシナリオライターを目指すようになった。
ある日、池端俊策先生の授業で、
「シナリオライターになるには、この学校を卒業してからシナリオライターになるまでの間、どうやって食い繋ぐかが問題だ。親が金持ちで食わせてもらえるならいいが、そうでない場合、女は結婚して主婦業をやりながら書くのが一番楽だ。男は付き合っている女に、この人を一人前に出来るのは私だけ、ぐらいのことを思い込ませろ。それが出来ないのなら働くしかないが、働く場合、面白い仕事はダメだ。なるべく辛い仕事をしろ。面白い仕事だと、書かなくなる」
と言われ、シナリオライターになるのは大変そうだとは思ったが、先のことなど考えられなかったので、2年は脚本(馬場)ゼミに入った。
馬場先生にいろいろ教わりながら書いたのが『やればやるほどいい気持』という作品で、『青』の第3号に掲載された。

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横浜時代の『青』第3号の表紙

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同・平田さんの紹介記事
[クリックで拡大]

それで、ますますシナリオライターになるつもりになったのだが、卒業してすぐになれるハズもなく、ちょくちょく馬場先生の仕事場に顔を出していたが、とりあえず研究科に進んだ。
研究科なら今村監督から直接指導を受けられると思っていたのだが、その年は『ええじゃないか』の撮影中で、浦山桐郎監督がピンチヒッターだった。

馬場先生から「女はやめろ」と言われていたが、寂しさから女(後の1番目の妻)を作ってしまい、研究科を卒業後に結婚。最初は「私が食べさせてあげるから」と言われ、馬場先生の仕事場に顔を出しながら、卒業生でエロ漫画の編集をする先輩からエロ漫画の原作を依頼され執筆。しかし、部屋代をパチンコで使ったりしたことがバレたり、いつまでも収入のない生活に、次第に妻の態度が変化…。そうこうするうち、妻が妊娠。妻の親から堕胎して離婚するか、働くかと迫られ、田舎へ帰って働こうと思った矢先、エロ漫画の原作を依頼してくれた先輩が「ウチで欠員が出来たから来い」と言われ、エロ漫画の編集になった。

エロ漫画の編集は、それなりに面白かった。だが、やはり池端先生の「面白い仕事をするとシナリオを書かなくなる」という言葉は本当だった。仕事が面白くなるにつれシナリオを書かなくなり、そのうちに、妻の出産、子育ての多忙も重なり、シナリオライターを目指す気持ちも遠のいていった。
自分は何をやっているんだ…と思いながらも、どうしようもない日々が数年続いたある日のこと。子どもと一緒にアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』を見終わり、最後にテロップが流れた時だった。「脚本 大橋志吉」という文字が流れた。大橋は同期で、1年の時に同じ新聞奨学生のクラスだった。そして、1年の夏休みのシナリオで入選した奴だった。
今でも発表の時のことを覚えている。馬場先生に褒められ、期待したのに準佳作でガッカリしていたら、大橋がタバコをふかしながら(どうだ、オレが入選だ)という顔をしてニタニタしていた。その大橋がテレビに名前が出ていたのだ。大橋が乗れたバスに俺は乗れなかった。オレのバスはいつ来るのか…。嫉妬と焦りで目の前が真っ暗になった。それがキッカケとなり、やっぱり書かなきゃと思い、会社に内緒でエロ漫画の原作を書くバイトを始めた。

だが、エロ漫画の原作で心が満たされるハズもなく、反動で仕事にのめり込み、次々に漫画誌を創刊。10年ほどで10人の部下を持つ編集部長となった。それでも心は満たされず、ボーナスで100万貰える待遇であるにも関わらず、仕事は部下に任せ、週に2~3回は釣りに行き、それ以外は碁会所に入り浸り、テレクラ(その当時は流行していた)で人妻をナンパしては遊びまくりの日々を過ごした。
そして11年前、やはり何をやっても心が満たされないことが分かり、このままではダメになると思い、退社。一念発起して編集プロダクションを起業した。それと同時に妻にも見放されて別居。会社をたった一人で始め、孤独と、過労と、不安の日々だったが、不思議と後悔も焦りもなかった。

私生活は散々だったが、逆に会社は次第に軌道に乗り、社員を入れるまでになった。迷わず映画学校の卒業生を入れた。理由は、シナリオを目指す若者の手助けをしたいと思ったからだ。仕事はしてもらうが、残業はほとんどなし、書くバイトは自由、作っている漫画誌の原作も書かせ、無理して社会保険にも加入した。自分が卒業した時、「こんな会社があったら入りたい…」と思った会社にしようと思った。自分では精一杯、社員がシナリオを書ける環境を用意したつもりだった。
いつしか社員も7人になり、うち5人は映画学校の卒業生だった。だが映画学校卒業生の社員たちは、みんな漫画の編集が好きになっていった。いくら「シナリオを書け」と言っても、こちらから書かせる漫画の原作以外は書かなかった。最初はシナリオライターを目指していたのに、いつしか漫画の編集を目指していった。自分もそうだったから偉そうなことは言えないが、シナリオを書くのは環境ではなく才能なのだと気付いた。どんな環境でも書ける奴は書け、書けない奴は書けないのだ。自分は若い才能を手助けするどころか、逆に甘やかして才能を潰してしまったのではないかとさえ思った。

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仕事場の窓から見える 癒しの東京タワー

社員がシナリオを書かないからといってクビにする訳にも行かず、まあ漫画の編集でも仕方ないか…と思い始めた矢先、今度は出版不況になり、雑誌が次々と廃刊。仕方なく次々と解雇し、最後は一人になった。残したのは、これ以上才能が潰れそうにない、一番シナリオの才能がなさそうな女子社員だった。その後、会社がやや持ち直して新しく社員を入れたが、それは残った女子社員の同級生で、シナリオはまったく書けない女性だ。社員にシナリオを書けと言わずに済む分、気楽だからだ。

今の仕事は、編集が『つりコミック』(辰巳出版)、『別冊週漫スペシャル』(芳文社)『週刊漫画times』(芳文社)。作家としては、自分の編集している漫画誌を中心に漫画原作を月に2~3本、あとは昨年から書き始めた携帯官能小説(みのり企画)を石田秀行のペンネームで執筆中。

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平田氏が手がけている雑誌

ちなみに、一番才能が無いと思い最後まで残した女子社員に携帯官能小説を書かせたら、これがけっこうヒットしている。こんなものだ。

平田弘次 PRコーナー】

もし、これを読んでいる人の中で漫画の原作や携帯官能小説を書きたいと思っている方がいらっしゃったら下記まで連絡下さい。

hirata@e-union.dyndns.org

Film-48.png【タケシゲ備忘録】

僕は横浜4期生には特別な想いを持っている。この年、僕は新聞奨学生(新聞配達のアルバイト学生)を1クラスにまとめ自ら担任を務めたからだ。理由は、新聞配達の学生が休刊日以外に夜間撮影に参加できなかったことに尽きる。
以前にも書いたが、この措置により、実習での夜間撮影は夕刊配達後に全員が再結集して行い成功だった。僕は得意になっていたが、実習期間が終わると、他の講師から授業の欠席者が多いとクレームがついた。調べてみると、学生たちは夕刊を配達すると徹夜でマージャンをして、そのまま朝刊の配達を済ませて寝てしまう。そうした連中が何組か連鎖して欠席する。また、教室も何となく無気力な雰囲気が漂い、若者の活力が感じられない。
以前、混合クラスだったときの、一般学生に負けまいと頑張る新聞生の意地が、全然見られないのだ。みんなで渡れば恐くないと同じで、みんな新聞奨学生だと思うと安心してしまう。彼らにハンデイを感じさせる鑑がなくなってしまったのだった。この傾向は、社会経験のない18歳の現役学生に多く見られた。

このクラスシステムは4期から2年続け断念した。
僕としては理想を貫きたい気持だったが、現実は若い僕の想いとはかけ離れたもので、自分の未熟さをさらけ出して惨めだった。口惜しかったが、むろん、クラス全員がそうだったわけではない。毎日授業に出て活躍する学生もたくさんいた。今回登場した平田弘次もその一人だった。

平田は書くことが好きで、僕の創作文授業では常に面白い物語を提出していた。横浜時代のように学生が60人近くいると、担任といえども全員の名前を覚えることは困難だ。そうなると、必然的に彼らの書いた創作や脚本の内容により名前や人柄を覚えるようになる。
「こいつ、面白いことを書くじゃない……」
教師も人間なので、まずはコンテンツへの興味から学生に入り込んでいくことになる。平田は物静かで内向的な青年だったが、そうした接点があったので今でも彼のことはよく覚えている。

平田が書いたように、わがクラスには大橋志吉という若い俊才がいた。大橋は『サクラ散る』で受験生のほろ苦い青春を描いて、4期生のシナリオコンクールで主席に選ばれた。
僕もクラスの学生たちも、新聞奨学生から脚本の第1位が出たことに驚くとともに大喜びした。
しかし、その陰で平田が大橋をライバル視して屈辱を味わっていたなんて、今回の寄稿文を読むまで僕は想像もしなかった。
大橋は外向きでフットワークの良い明るい青年だった。
彼は生来の軽快さを活かし、卒業後はアニメ脚本の道で成功したのだが、実際のところ平田に嫉妬されるほどの友人関係にあったのか僕には知る由もない。
他方、平田は内向的で書くものも特異なものが多かった。幼少のころに体験した「お医者さんゴッコ」の記憶から逃れられない青年……当時、平田に対してそんな印象を持ったことを覚えている。ま、競馬に例えれば平田はダートコースを走り続けた競争馬だが、それだけに、ある種の重厚感と人間臭さが漂っていて好感を抱けた学生だった。

平田弘次の寄稿文を読んで、僕は平田が今もなお脚本にこだわる姿に感動した。
エロ漫画や釣り専門誌を発行しながら、自分が駄目なら後輩の社員たちに脚本の夢を託すところなど実に興味深いエピソードである。
彼は卒業後の漂流や失敗も書いているが、何だかんだと言いながら、会社を起し、無理して社員達の社会保険にも加入したことなどを読むと本当に敬服してしまう。たかが社会保険などと思うかもしれないが、零細な貧乏プロダクションを経営してみると、それがいかに大変なことか分るはずである。
平田弘次はやや自嘲気味に自分の半生を書いているが、それは平田の生来のパフォーマンスであり何ら驚くことはない。平田弘次は芯から誠実で真面目な男なのである。彼の工房から、いずれすごい脚本家が生まれる日が来るにちがいないと僕は信じている。

※敬称を略させていただきました。(編集部)

Film-48.png五十嵐 満の俺からも1言!

昔、横浜の学校に2年間だけ「新聞奨学生クラス」があった。
全国から映画づくりに憧れて、親や教師の反対を押し切り、半ば勘当状態で横浜のスカイビルに辿りついた若者はかなりの数であったと思う。当然のように入学、即、金無しである。そんな中「新聞配達をしながら2年間の学生生活を送れる奨学金制度」があった。
3食宿舎付き、学費はもちろん毎月小遣いまで支給される、という一見ありがたいものであったが、これは映画を学ぶ学生にとっては一番重要かもしれない「個人の自由時間」を犠牲にしなければならないキツイ仕事でもあった。夜も明けない朝3時には起床し朝刊の配達、学校の授業や実習がまだ終わらない夕方4時には夕刊の配達が始まる、それに加えて購読料の集金、そんな毎日が延々と続く。
もちろん当時の学生だってご多分にもれず大方は貧乏だったけれど、バイトの合間に教室やロビーで夜遅くまで口角泡を飛ばして議論したり、横浜西口の安酒場で最後には訳が分からなくまで酔っぱらう時間はあった。
当時、奨学生クラスにはヒリヒリとした雰囲気があって、決して自分を卑下しているわけではないけれど、今の状況に苛立ち、満たされない自分に対し少なからず怒りを覚えているように感じた。簡単に比較はできないし、根拠など何もないけれど、他の学生に比べ新聞奨学生は現実の社会と善し悪しも含めより深く繋がっていて、確かに地に足が着いているいるようにも見えた。そしてこれが彼ら奨学生のタフさの根源であったと思っている。

今村監督はいつも「お前たちは打たれ強いボクサーになれ」と言っていた。
決して楽ではない現実のなかで何回も失敗しながらも、あきらめずに立ち上がる。鋭いパンチで綺麗に相手を倒すのではなく、パンチを浴びながらもカウントエイトで立ち上がり相手を追い詰めていく。またTKOでリングから担架に乗せられていくときでも拳だけは握っていて欲しい。たぶん、こんなことだったのだろう。
そんなリングに平田弘次もいた。ヒョロリと痩せていて、ギョロリとした目、面白いんだかつまらないんだか分からないようにいつも教室にいた。でも、笑うと白い歯が見え意外と人懐っこい顔になり、妙な存在感がある奴だったのを覚えている。
卒業後は出版の仕事を始め、何人かの後輩の世話までしてくれた。今回の平田の寄稿文を読んだが、やはり平田らしい。らしいというのはいかにも平田の歩き方ということだ。これからも新聞奨学生で培ってきたタフさをバネに、しぶとく、しなやかに歩きつづけて欲しい。

追伸  
横浜4期研究科の『アイシャル・リターン』制作の大変さは目の当たりにしていたので、あのメンバーでよく完成したしたものだと変に感心しています。お疲れさま。
でも平田よ、図らずも実習指導が「鬼のイマヘイ」が入口で「蛇のウラヤマ」が出口だったのは、世界広しといえども君たち4期研究科の人たちだけです。これは大いに自慢してもいいのだよ。

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2002年、沖縄の世界学生映画祭。
今村監督(前列中央)のボディガードとして参加した赤塚氏(最前列右)
左側の五十嵐氏とともにOB6000人の永遠の兄貴分

Film-48.png【OB通信】

横浜放送映画専門学院4期 映画演出科 貞永方久ゼミ
大橋志吉

平田弘次さんの寄稿文に登場された同期の大橋志吉さん(シナリオ・ライター)に連絡をとってみました。
大橋さん、変わらぬ軽快なフットワークで、お便りを下さいました。

横浜4期のころは、研究科がありました。
2年で終了して、後1年、週1回の授業を受ける制度です。研究科は、当時の学院長、今村監督、直属でした。3期では、1年間かけて、45分程度の16ミリの映画を製作しました。それに手応えを得た今村監督が、4期でもやろうとしました。
研究生が、プロットを提出するのですが、「これだ!」というのが、なかなかなくて、脚本の期限も迫って来ました。いよいよ、連休明けに、脚本がないと、ダメだとなりました。
そこで、平田さんの「彼女が、故郷のお祭りを見にくればというので、気軽に行ってみたら、ピッタリの浴衣が用意してあった」(平田氏は、身長があった)との話を元に、ぼくと石綿氏とで、2日間で、脚本をでっち上げました。『ファイブ・イージー・ピーセス』をイメージして。
結局、脚本が完成したのが、これしかなくて、それで進めようとなりました。
その脚本を読んだ今村監督の初めの言葉は、カタカナの『ソ』と『リ』の違いについてでした。
結局、脚本を7回ぐらい、大幅に書き換えて、やっと今村監督のOKが出ました。そして、今村監督はいいました。
「本来は、オレが監督をするつもりだったが、撮影が長引いていて、スケジュールが取れない(当時、今村監督は映画撮影の真っ最中でした)。だから、オレが一番信頼する監督にお願いした。それは、浦山監督だ」
こうして、浦山監督との打ち合わせが始まり、結局12稿くらいになって、やっとOKが出ました。脚本の直しは、撮影中も続いて、「明日は、このシーンとこのシーンを撮影するから、直しを書いてこい」といわれ、撮影準備が終わって、仲間の研究生が、寝袋に入った後に、石綿さんと一緒に直しを書きました。
その直しの期間は、まさに地獄でした。こんなことなら、平田さんの話を聞かなければ良かったと何度も思いました。
なお、研究生が映画を作るシステムは、僕たちの期で打ち切りになりました。

Film-48.pngスギヤマ編集長メモ

今回登場くださった平田さんには、編集部一同、感謝感激雨あられ、でありました。
なぜかって?
それは、「平田弘次ここにあり」と名乗りを上げてくださった、特筆すべき初のOBだからです。

メインタイトル「エロ事師 見参!」は、言わずと知れた今村昌平監督作品「エロ事師たち」に因んでおります。タケシゲ牧場主から聞きかじった話ですが、監督はあの作品に、エロ小説家も登場人物に考えていたとか…。脈々と生き続けていく今村DNA、面白いですね。
OBの皆さんの「今」を知りたいと願う『OB牧場』は、皆さんからの発信こそ、命!
続々と名乗りを上げてくださいますように、お願い申しあげます!

1975年、映画監督・今村昌平が「既設のレールを走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけ、『横浜放送映画専門学院』を横浜駅前に開校。1985年、学校法人神奈川映像学園が設立され、3年制の専門学校とし、名称を『日本映画学校』に改める。その翌年、川崎市、小田急電鉄、映画各社等の協力により、川崎市の新百合ヶ丘駅前に薪校舎が完成・移転。2011年、日本映画大学開学。

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Y…横浜放送映画専門学院
N…日本映画学校

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