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「日本映画学校OB牧場」
今村ワールドの仲間たち

1975年、横浜のスカイビルに映画学校を設立してから35年になる。 最初の専門学院は2年制で11年、後半の専修学校は3年制で25年、合わせて36年になる。いずれにしても、僕の中では今村さんのDNAを持った同一空間であり、映画をやろうが、農業をやろうが、同じ釜の飯を食った愛しい卒業生たちである。 卒業生と言ったが、初期の連中には60歳半の者も居て外見は71歳の僕と殆ど変わらない。 つまり、僕ら講師も学生だった者もいまや同じ今村ワールドの仲間たちなのである。 思えば、我々の学校は小さく家族のような集団だった。個々の経緯は違えども、何かの縁が在って今村ワールドに迷い込んできた流離人なのである。亡くなる一ヶ月前に病院を訪ねた時、「学生たちは、どうしてるかね・・」と、今村さんは遠くを見る眼で呟いた。混濁した意識の中で彼が何を見ていたかは知る由もないが、僕はいずれ、全国に散らばったOBたちが気楽に話し合える場を作ろうと思った。学校には正規な校友会があるので、敢えて非公式を表す「日本映画学校OB牧場」と、ふざけたクラブ名を付けてみた。 第1回は今年の卒業生たちと深谷シネマの竹石君を訪ねて大いに楽しんだ。 願わくば、全国に散らばっているOBたちの気楽な歓談の場になれば幸いである。

(2010.7月 武重記)

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Film-48.png第24回・岩崎聡子】

今年、創立36年を迎えるイマムラ・スクール。
横浜東口スカイビルから始まり、日本映画学校へと変貌し、ついに日本映画大学に生まれ変わりました。
新たな進化の道を歩み出しています。
6000人を超えるOBの、年輪を刻むサイトに、ようこそ!

今回の第24回「日本映画学校OB牧場」は日本映画学校第4期OB、俳優の岩崎聡子さんに登場していただきます。

面白いと思える所には いつも

俳優・岩崎聡子 さん
日本映画学校第4期 俳優科 藤田傳ゼミ
(東京都出身)

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岩崎聡子さん

1982年10月、当時高校1年生で15歳だった私は、長野県南小谷村の奥深い山をMプロデューサーと黙々と登っていた。
山に登りきった瞬間にMプロデューサーに「誕生日はいつだっけ」と聞かれる。
「来月です」
「じゃあ、もう16歳みたいなもんだね。明日はセックスシーンだから」
「……」
脳裏を、映画『青春の門・自立編』の激しい男女の交わりのシーンが埋め尽くした……。周囲はすっかり夕闇であり、険しい山道を1人で下山するわけはいかない。
繕った笑顔で、「ハイ」と答えた。
「君はあそこに泊まるから、まず荷物を置いて、そのあと監督と面通しね」
眼前には藁葺き屋根の民家の集落があった。
民家を目指し歩いていると布団を山盛りに背負った若者や「僕が食べるので野沢菜を作ってるんです」と水耕栽培に励む男性とすれ違う。布団を背負ったり野沢菜を植えたり、ここはピンクレディーがいるような華やかな世界ではない、ということがじわりと伝わってきた。

映画『楢山節考』のオーディションは前月9月、初台の今村プロで行われた。
面接官は助監督の武重邦夫さんと月野木隆さんだった。
「今村昌平を知っているか」と聞かれ「知りません」と正直に答えたが、数日前に木下恵介監督『楢山節考』のリバイバル上映を観ていたので「あ、楢山節考観ましたぁ~!」と得意げに発言し、月野木助監督から「今、撮影してるんだけど……」と失笑を買う。
「……あ、あの、全部セットで……歌舞伎の幕が出てくる……」
弱気に説明すると、お2人は「ああ、あれね」と納得したご様子だった。
「どうだった?」と感想を聞かれ「感動的な話と思ってたけど、カラスがたくさん出てきて……、怖かったです」と言うと「この映画は、もっと怖いよ。ほら」と助監督が指したベランダには、髪の毛が生えている骸骨やカラスの人形や背負子が無造作に置いてある。そして「リアリズムって知ってる?」と畳み掛けられるように聞かれ、音楽についての質問だと思ったが「知りません」と答える。最後に月野木助監督から「裸になれますか?」と聞かれた。これはただの度胸試しにちがいないと判断し「はい、なれます!」と胸を張って答えた。浅はかな15歳だった。

翌日か当日に事務所から合格の電話があった。飯野久さんによると、選ばれた理由は「田舎臭かったら」。生まれも育ちも東京なのだけれども。
ピンクレディーを夢見てタレント養成所に入り1年。母親には才能がないからやめろと言われながら、初めて受けたオーディションで初めて私に与えられた仕事だった。ビギナーズラックである。

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『楢山節考』台本の表紙

荷物を置いた私は、一番大きな民家の中にある今村監督のお部屋に通された。
監督は座卓の向こうに座ってこちらをじっと見つめていた。
ドキドキした。そして私は「……小林桂樹に似てる」という極めて稚拙な感想を監督に抱いた。
初対面の監督は低い声で「ふん」と呟き、「前髪を上げてみて」とおっしゃった。面会の所要時間は2分だった。
その晩、相手役の倉崎青児さんに手篭めにされる夢を見た。
最後までは知らないので途中までの行為(それも想像)を繰り返し夢に見て、朝を迎えた。小高い草むらで撮影が始まり監督から「杉やん(役名)はぼーっとしている子なので、ぼーっと草むらから起こされるように」と指示が出る。本番では、ほとんど素っ裸の状態だった。役作りではなく本当にぼーっとしていた。スタッフがたくさんいて、「こんなに大勢の人に裸を見られるとは」と頭が興奮していた。瞬く間に撮影は終わり、宿舎に戻る。「お風呂に入ってね」と言われ、入ったお風呂のお湯は、生まれて初めて見る濁った赤銅色だった。

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『楢山節考』パンフレットより。写真左下に “杉やん”(右)

監督の演出は、非常に手短だった。ラストシーンでは「杉やんはとてもおなかが空いてるんだ」と一言。何度かテストをし、呼吸が少しでも狂うと、「今のは違うね。芝居をしている」と厳しく指摘された。楢山の体験で「非日常に耐えうる強靭な精神と肉体を創り上げること」が人生を懸けてのテーマだと知らしめられ、そして、演技やお芝居を認識する以前に「まず、なにもせずにそこにいなさい」ということを教えられた。おそらくこれが今村イズムのひとつであり、私が監督から頂いた大事なDNAなのだと思う。

高校3年生になり、今村プロへ進路相談にたびたび通う。監督とお話をすることがとても楽しかった。監督には「お前がヨコハマに来たら、ヘソになる」と言っていただいたが、同時に文学座養成所なども勧められた。そして私はヘソも新劇の道も放棄し、「大自然の中で農業に従事し演技の勉強が出来る」富良野塾を選んだ。が、その後に観たヨコハマ9期の卒業公演が、どこの劇団よりも一番面白かった。
富良野塾2年目の夏、「今村監督が君をキャスティングしようとしているが東京に来られるか」という電話があった。早速、倉本塾長に説明し「行ってきなさい」と快諾を頂く。

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『女衒』パンフレット

灼熱の国マレーシアで、映画『女衒』(ぜげん)は撮影された。全俳優に日焼け命令がだされ、撮影以外の時間は日焼けに励み、毎日中華料理の円卓を囲み、毎日酒盛りをする、お祭りのような日々を過ごした。

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『女衒』で女郎に扮する岩崎さん

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『女衒』ロケ風景

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『女衒』ロケ。船上の緒方拳さんと倍賞美津子さん。その間に今村昌平監督

ラストシーン近く、軍隊を使った大規模ロケの時だった。粘りに粘った夕景狙いの瞬間、周囲にコーランが鳴り響いた。凍りついた空気を破るように、監督が「コーラン、とめろー!」と大声で叫び、現地通訳さんが「それだけは出来ません」と頭を震わせて蒼白になった。監督は格好良かった。

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『女衒』ロケ中の今村昌平監督

映画の撮影が終わり、真冬の富良野に戻り卒塾し、文学座を進路に選ぶが今村監督が推薦してくださったにもかかわわらず試験に落ちてしまう。順風満帆に思えた人生で初めて挫折を覚えた。しばらく悩んだ結果、今村監督へ手紙を書き、映画学校への入学を希望した。すでに試験は終わっていたが無試験入学を許可された。

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映画学校時代 淀川長治先生と岩崎さん

当時22歳。入学してみると同級生は全員年下。4期俳優科に美男美女は1人もいないが、何の定義にも収まらない暴発的な個性と若さを誇る集団だった。フレッシュで魅力的な同級生の中で私は、居所の確保が難しい学生だった。良くいえば逃げ場のない3年間を過ごした。
現場の経験をしていたことで、期待も含まれた新たな厳しい要求や評価を消化出来ずに、焦りが募った。反面甘えもあった。
ある時、今村校長の特別授業があり質疑応答の時間に、「私たちは、全共闘や学生運動時代の学生と比較をされることがありますが、一体何が違うのかわかりません」と発言をし、監督から「無知を自慢するな」と一喝された。
監督はよほど腹に据えかねたとみえ、後に新聞のインタビューなどで「最近の若者は無知を自慢する」と話していた。ヘソから無知への転落。空恐ろしい事実を厳正に受け止めなくてはならなかった。
卒業後は「劇団1980」へ入団し、ハチマルは「男尊女卑」の劇団だと入団した日に柴田先輩からシャクフクされたが、本当に男尊女卑だったので私は3年で辞めてしまった(笑)。

ハチマルを辞めた後は、さまざまな現場で活動を続けた。付き人をしつつ新派や商業演劇なども経験した。声優学校の演技講師や証券市場の派遣などで生計を立て、2003年から2005年には新国立劇場で制作助手という立場で演劇にかかわり、芝居造りを一から勉強し直した。朗読のライブ活動なども始めた。その間、文化庁の演劇留学を希望し今村監督に推薦状のお願いに上がったことがある。ご自宅で監督とお話をしていた時、「俳優が生き残るために必要なのは愛嬌だが、お前には愛嬌があるね」とおっしゃっていただいた。無知を自慢した若者から、愛嬌がある俳優に少し浮上できた気がして、今でも嬉しい。留学の夢は叶わなかったが、監督から頂いた最後の言葉を励みに頑張ることが出来た。2006年には、市原悦子さんの所属するワンダープロへ入り、2009年には佐藤武光さんがプロデューサーの『ゆずり葉』という映画に出演した。

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『ゆずり葉』の1シーン (『写真集 ゆずり葉』より)

結果的にどこかに今村組の繋がりがある。究極のピンチでは必ず誰かが助けてくれる不思議な安心感がある。それが、私にとっての今村監督であり、今村学校の絆なのかもしれない。

-----番外編-----

2010年秋、日本で韓国の演出家イ・ユンテク(李潤澤)氏のワークショップを受け、ユンテク氏の演技論と人柄に惹かれた数名の日本人メンバーで、今年の2月から2度韓国へ行き、ジャン・ジュネの『女中たち』を釜山で上演した。

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舞台『女中たち』韓国公演のパンフレット表紙

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クレール役の岩崎さん(右写真中央)/同パンフレットより

韓国では行政と芸術のかかわりが深く、文化庁長官に映画監督や演劇人が就任する。演劇と観客の結びつきも非常に強く、観劇は国民の日常的な娯楽である。
ユンテク氏は「演戯団コリペ」という劇団を主宰し劇団員は60人ほど、民間芸術団体では異例的に全員給料制で運営。完全合宿制度で朝から真夜中まで稽古をしている。
1人の俳優が1日に2作品出演することや、本番と稽古の掛け持ちをすることは普通。そして韓国では、いや、コリペでは予測という法則が存在しない。初日が終わり、明日は夜公演1回だからと、翌朝のんびりしていると、「9時から稽古です。11時にここを出発します。今日は2時と7時の2回公演です」と発表がある。キャストの入れ替えも本番の前日にあるし、1時間45分の3人芝居を本番を含め1日4回やって翌日9時半から稽古、共演者が稽古中過呼吸で倒れるということもあった。毎日の異変に慣れると、むしろ今日は何が起きるか楽しみになっていた。イ・ユンテク氏は、新宿梁山泊で藤田傳さんが役者として登場したときの演出家だった。
面白いと思えるところには、必ず今村監督のDNAが含まれている気がする。

【岩崎聡子 PRコーナー】

密陽(ミリャン)国際演劇祭(演劇フェスティバル)公演 『女中たち』に出演
日程:7月29、30、31、8月1日
場所:韓国・密陽(ミリャン)の演劇資料館にて

イ・ユンテク氏は韓国の蜷川幸雄といわれている演出家で、ソウルと釜山の間にある密陽という都市に、廃校校舎を改修した密陽演劇村を所有しています。

毎年開催される夏の密陽国際演劇祭には2万5000人が訪れるほどの演劇祭を主催し、現在3つの小劇場、2つの中劇場(屋内、野外)、1つの大劇場(野外)、演劇資料館、ゲストハウスなどが運営されています。
私を含めた日本人5人が今年、ジャンジュネの『女中たち』という作品で密陽演劇フェスティバルに参加します。
その後、8月下旬から、東京新宿のタイニィアリスで『女中たち』の凱旋公演があります。ぜひご来場ください!

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『女中たち』東京公演 チラシ・表(拡大)

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『女中たち』東京公演のチラシ・裏(拡大)

東京公演
場所:新宿タイニィアリス(丸の内線新宿3丁目徒歩3分)

8/24 水 19時 韓日Ver
8/25 木 14時 韓日Ver :19時 日本Ver 
8/26 金 14時 日本Ver :19時 韓国Ver
8/27 土 14時 韓日Ver :19時 韓国Ver
8/28 日 15時 日本Ver

※岩崎は日本バージョンに出演します。
日本バージョン、韓日バージョンは日本語上演。
韓国バージョンは韓国語での上演となります。

※前売券3000円 当日券3500円 リピート割引券1000円

※以下のページから、ご予約・お申し込みができます。
ブログのトップページから、専用予約フォームを通じてご予約いただけます。

※メール・電話・FAX での予約
劇場 TEL & FAX 03-3354-7307
劇場メール  Tokyo@tinyalice.net
本公演メール mozukikaku@yahoogroups.jp

メール・FAXご利用の際は、お名前・日時・枚数・備考(リピーター割引希望など)を明記の上、お申し込みください。

オーディオブック「台湾式足つぼ」朗読
好評発売中!

Film-48.png【タケミツ備忘録】

日本映画学校講師
佐藤武光(映画監督・プロデューサー)

得たいの知れない女

岩崎聡子との出会いはマレーシアで1986年制作の映画『女衒』であった。しかしその記憶は、あまり定かではない。もっとも今村監督自身、カンヌグランプリ受賞後第1作でカンヌ出品が決定しており、世界が注目した中での撮影であった。
そんな中、今村さんから助監督への要求は、突然「あのヨットが欲しい」とか、月野木、三池助監督ともども、聡子どころではなかったというのが、本音である。

ただ映画『女衒』の中で聡子が土砂降りの中に日本娼館街から逃亡を企て、やくざに連れ戻されるシーンは鮮明に記憶している。
でもそれは、雨降らしなど、助監督がやらねばならず、段取りが大変だったからかもしれない。

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逃げる女郎(岩崎聡子さん)

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『女衒』リハーサル中の佐藤武光監督(左)と緒方拳さん
中央に助監督時代の月野木隆さん、奥に助監督時代の三池崇史さん

それゆえ、岩崎聡子との出会いは、『女衒』以降と、いってもいいぐらいである。彼女自身の言によれば、1982年15歳のヌードデビューとのこと、しかし、僕の彼女のイメージは今でも、見た目20歳、意欲25歳、行動力28歳、エネルギー28歳、色気60歳(怒られるかな?)、実年齢44歳のお化けということになる、そのお化け振りを解説してみよう。

いつ会っても、仕事の話ばかりである。あるときは、詩の朗読、あるときは、仲居さん、あるときは舞台の製作助手、マッサージのナレーター、富良野の舞台、韓国の舞台。
大人の自転車にまたがり、梅が丘界隈を、走り抜ける。営業もうまい。安定収入の道など微塵も求めていない。俳優、声優、ナレーター、舞台俳優などさえ出来れば、ギャラのこともあまり要求しない。芝居が出来ればいいのだと。あとは、アルバイトでなんとかこなす。アルバイトの職域が広い。女学生が多いウエートレスも見た目は、OKであり、それに仕事が出来るとくれば、引く手あまたである。
それでも、もう熟女アラフォーだ、いい旦那を捕まえろ! と、会うたびに独身男性を候補に挙げるが、あまり興味は示さない。どうやら芝居と結婚してしまっているからなのだろう。

あるとき、僕がプロデュースした映画『ゆずり葉』のオーディションに誘った。この映画は脚本、監督、キャストがほとんど本物の聾者(ろうしゃ)で作られる作品であり、健聴者にも向けての映画である。
それゆえ手話が出来なければオーデションで監督、キャストと話すらできない。もちろん会場に手話通訳はいるが、映画の中では手話通訳の設定である。僕の説明も彼女に詳しくしていなかった。
当日集まった人たちは、むろん手話の出来る人たちばかりである。かなりの人数が集まり彼女の順番は、夕方に近かった。僕も審査員の一人であるが、そう期待もしていなかった。手話が出来なきゃ無理である、聡子に悪いことをしてしまったなと、感じていた。
そんな中、聡子が、聾者の監督の前に向き合った。
監督が手話通訳者を通じ、
「手話は、出来ますか?」と、尋ねた。
「出来ません!」
しかし、まね事程度なら出来ますと、突然手話で、監督に話し出したのである。
何を話したのかは、まったく覚えていないが、監督と手話で話のやり取りを始めたのである。聾者の監督が、驚きの表情で、
「手話は、出来ないとおっしゃいましたよね、どこで習ったのですか?」
「今日、会場に来て、聾者の方から習いました」
「それだけですか」
「はい」
監督が、今日習っただけで手話で話してくれた姿勢に大変感激し、そのことでオーディションに合格したといっても言い過ぎではない。同席した審査員の1人として聡子に告白しておこう。だからその後が大変であった、彼女だけ手話の特訓である。
かなり、大きな役であり、したがって、セリフも多い。ごまかしが効かない。
本物の聾者が、判断するのだから。

しかし、あの童顔の美女は、見事手話を使いこなしてくれた。
映画『ゆずり葉』が、全国700ヵ所以上のホール上映が出来たのも、彼女のおかげかもしれない。

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『写真集 ゆずり葉』表紙

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『ゆずり葉』の1シーン(『写真集 ゆずり葉』より/三省堂 定価1300円+税)

こんな大活躍でも、そう高いギャラを稼いでいるとは、思えない。彼女の童顔からは、そんなのどうでもいいのよ、と、生活の不安感など、微塵も感じさせない。今村監督仕込みとでもいうのだろう?
こんな聡子は、生え抜きのお嫁さん候補に、大推薦しよう!!
OB牧場諸兄のみなさん、いかがですか。

今日も童顔の美女は、でかい自転車にまたがり、夕暮れの町を、エネルギッシュに疾走していく。
自分でも、どこに向かっているのか分からないのだ、それが岩崎聡子のエネルギーかもしれない。

Film-48.png【OB通信】

横浜放送映画専門学院第7期 演出科 前田陽一ゼミ
芳賀康弘

久々に同期の活躍を映画館で見まして、嬉しくなったので、報告させてください。昨日(7/19)観た映画のエンドロールで彼の名を見つけ、頑張っているんだと安心しました。助監督としてタイトルに出されるのは、当然チーフ助監督ですよね。 もう彼もその道何ン十年ですよね。彼の名は、片島章三といいます。当然、学院を出た関係もあり、エンドロール(特に邦画)は、いつも気にして視ています。彼の名も何度も見つけました。今回の『アンダルシア』はじめ、いわゆる大作が結構、多いように思ってます。できましたら、彼の連絡先ないしは、消息をご存じのOBの方、当然現場でご活躍の方で、彼に会った方は、大勢いらっしゃるとは、思うんですが……。どなたかご存じの方、ご連絡いただけたら幸いです。よろしくどうぞ! お願いします。
敬具

※ 芳賀さんのご質問へのアクションは、下記「OB牧場!」投稿受付アドレスにメールを御願いします ※

ob#cinemanest.com
(恐れ入りますが送信の際、♯を@に替えてください)

Film-48.png【OB通信】

日本映画学校第22期 脚本演出コース 渡辺千明ゼミ
橘内裕人

福島発の映画で東北に元気を!
劇映画『物置のピアノ』−−「福島77」の仲間を募集中!!

映画の力で、東日本大震災の被害を乗り越える希望と元気を発信したい。
復興のさなかである今だからこそ、被災地・福島で映画を作ることにより地元の人々に元気になってほしい。
そして、世界各国・日本各地から受け取った「思い」への答ができればと考えています。

前回の「OB牧場」でも告知させていただきましたが、
引き続き映画製作にご協力してくださる方を募集しております。

●「福島77」について
福島県出身である、現在福島に住んでいる、福島に強い思いがあるなど、同じ思いを抱いた方々を77人集め、映画を製作していきます。
今回の映画は「みんなで映画を作ろう!」をひとつのテーマとして、ひとりでは微力で成し遂げられないことでもたくさんの仲間が集まれば不可能を可能にできると信じています。
福島県の77人の仲間が集まることによって、現地での宣伝活動やチケットの販売、ロケ場所の提供など、それぞれができることをできる範囲で行うことができればと思っています。
少しでもご興味をお持ちになられた方はぜひ、ご連絡ください。福島県人の力で地元を元気に盛り上げていきましょう!

●映画『物置のピアノ』製作資金について
現在、来年夏のクランクインを目指して映画の製作資金を集めております。
故郷のために何か力になりたい、大震災で疲弊した人々に勇気と元気を分けてあげたい、そんな強い思いを持った方の力が必要です。
福島に限らず東北で震災にあった方々に送る大きなエールになると思っております。
特に福島県出身で県内外問わず活躍している方の大きな力が必要不可欠です。できる範囲でご支援いただき、製作に踏み込むことができればと考えております。
福島から東北全土へ、東北から日本全国へ、そして日本から世界中へこの映画を羽ばたかせ、日本各地・世界各国へ「福島は日本は頑張ってるぞ!」と大きく声を上げたいと思っています。
ご興味をお持ちになられた方、詳細をお知りになりたい方は、お気軽にご連絡ください。

○連絡先アドレス
日本映画学校22期 橘内裕人
abydos.sestos@gmail.com

映画『物置のピアノ』twitter
@monookinopiano

※公式twitterができました! 
映画ができるまでをリアルタイムでつぶやいていきますので、フォローよろしくお願いします!
facebookでもファンページを開設しました。
『物置のピアノ』で検索をお願いします。

Film-48.pngスギヤマ編集長メモ

岩崎聡子さんの我武者羅人生は、アラ還世代に日々刻々と近づいていくスギヤマを大いに刺激します。
今でこそリストラされたサラリーマンのWワークも当たり前ですが、芝居を続けるためなら、岩崎さんはトリプルワークだって平気の平左ですね、きっと。
この人は私に似ている、そんな感想を持たれた方もおられるのではないでしょうか。
思えば今日まで、スギヤマもWワーク、トリプルワーク当たり前の日々でした。横浜在学中は、学生の大半がバイトで生活費を稼いでいましたからもちろんですが、横浜西口の場末の店で終電まで酔客相手に酒を作り、実習中などは店がハネた後に学校へ戻って徹夜作業に参加といった修行の日々。卒業してからは、プロダクションで電話番をしながら企画書を書き、夜は夜中まで(またまた)水商売。色気はないけど話題は豊富ってな売りで、シナリオライターになるまで続けましたっけ。結婚と離婚を経験した以降も、映画をやりたいと思い続けて、なんだかんだのWワーク、トリプルワーク。
極めつけは、当時1000人以上のオバさんだらけの職場でのバイトですかね。スリルいっぱいで面白かったですね、なんたって、オバさんだらけ。失礼があっては、総スカンを受け、全国区でイジメにあいますから。でも、子育て経験のないスギヤマは、アニメのシナリオや子育て話のシナリオのアイデアをこの職場から山ほどイタダキ、でした。バイタリティとエネルギーの塊の中高年とされる女性群像に鍛えらましたね。おかげさまで正統派のオバさん道をまっしぐらに進んでいる次第です。

今回も、OBの方々から告知や通信をいただきました。皆さんの発信をお待ちしています。
ぜひ、情報やご参加お願いします。

1975年、映画監督・今村昌平が「既設のレールを走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけ、『横浜放送映画専門学院』を横浜駅前に開校。1985年、学校法人神奈川映像学園が設立され、3年制の専門学校とし、名称を『日本映画学校』に改める。その翌年、川崎市、小田急電鉄、映画各社等の協力により、川崎市の新百合ヶ丘駅前に薪校舎が完成・移転。2011年、日本映画大学開学。

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Y…横浜放送映画専門学院
N…日本映画学校

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