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プロデューサー/武重邦夫

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南医療生協を思う

2008年の夏、僕は初めて名古屋市南区にある南医療生協を訪ねた。
事務所が分りづらいので、病院で聞いてくれといわれ南生協病院を訪ねた。開院時間で混雑したロビーで戸惑っていると、突然、黄色いエプロンのようなユニフォームをつけた初老のおじさんとオバサンが飛んできて、「どこの科へ行くのですか?」「さあ、ご案内しましょう」と両脇からだき抱えられてた。「いや、僕は事務局へ・・」仰天して慌てて説明する。「そうですか、では、私がご案内しましょう」おじさんの一人が笑顔で言うと、僕を隣棟の事務所まで連れて行ってくれた。僕が病院という場所で、生まれて初めて親切と笑顔に出会った瞬間だった。それから2年間、僕は会員さんの会議や理事会までも参加させてもらったが、何処でも同じような親切と笑顔に出会った。人々の自然体の親切や笑顔に僕は感動した。確か昭和30年代頃まで隣近所に在った、あの人間臭や肌触りや安心感だった。「何故、この南医療生協には安らぎがあるのか?」東京都という世界一の無縁社会で生活している僕には不思議でならなかった。僕はこの6万人の共同体の行き先に未来を感じ取った。その未来を知るために映画を作ろうと思った。

“笑顔と親切”、そんな単純なことで映画を作るの? 友人のジャーナリストが笑った。
「そうだよ、興味があるから映画を作るんだよ」と僕は答えた。本当はそんな簡単なことではない。僕は名古屋に生まれ育ったから、伊勢湾台風で南区の5,000名の人たちが亡くなったことを知っている。住民やボランティアが寄り集まり、荒廃した区内の一隅に星崎診療所が誕生したことも知っている。住民が自らの力で生活協同組合を作り、南医療生協病院を創り上げた苦労も知っている。それだけではない。この組織は全員が一体になり、縦型の構造を破棄し、会員ひとりひとりの意見が反映される水平型の組織に変革していった努力も知っている。組織の権力構造を崩し、人間の絆で構成される新しい形の協同組合を目指したことも知っている。そのため、6万の会員が如何に外部からの圧力に耐えたかも知っている。だけど、僕には分からないことがある。それは、あの笑顔と親切のエネルギーが何処から湧き上がってきたかという謎である。

笑顔も親切も、他者へ発信するエネルギーである。自分が在って初めて他者との関わりが成立するのだから、前提として、自由な自分が確立してなければなし得ない業である。
もしそうだとすれば、6万人の膨大な会員組織で自己確立が成し遂げられたことになり、これは従来からの組織体の体系を超えた画期的なことである。本当にそんな事が実現するものなのか? 僕には分らない事ばかりだ。 最近、南医療生協の施設を巡り歩くと「地域だんらん」という張り紙が在ることに気が付いた。だんらんとは懐かしい言葉だ。家族の団欒。亭主を会社に送り出してからの主婦達の団欒。下校後の子供たちの団欒。休日に住民達が集まる町内の団欒。いずれも今日では死語と化した懐かしい安らぎの響きだ。そうか、笑顔と親切の輪が広がると確かに「だんらん」というフィールドが生まれてくる。さまざまな人間の所業を包み込んでくれる安心のフィールドでもある。そうなのか・・僕は南医療生協の会員さんたちが医の究極に求めているモノが少し分ったような気がした。

しかし、僕には「だんらん」の頭についている「地域」という言葉が分らない。もともと生活協同組合は会員がひとりふたりと鎖状に組み合って出来た組織である。株式会社の株主と同じで、自分たちの受益組織であり会員だけの独自の世界であるはずだ。それが「地域だんらん」とはいったいどうゆうことなのか? 地域社会は地縁血縁で結ばれた共同体だったが、現在では不特定多数の人々が居住する行政区域の名称だ。同じ目的で集まった生活協同組合の会員とは意味が違うのだ。僕は不思議に思い、知己の会員さんに疑問をぶつけてみた。すると彼から意外な答えが帰ってきて驚かされた。彼らは、緑区に新設した南生協病院の成立を機に、医療生活協同組合や会員制の枠を超えて「医療と安心の街づくり」に挑戦しはじめたのだという。それは誰が決めたんですか? 『会員全員で1,000人会議を数十回かさね、皆で決めました。でも、病院の本体が南区から移動するのだから、それなりの意味を発見していくのが大変でした』彼は言葉少なく、そのときの苦労を話してくれた。

南医療生協は、伊勢湾台風で壊滅状態になった南区で50年にわたり病院を作り医療施設や福祉施設を構築してきた。大半の会員が南区の住民であり、自然と地域医療を担ってきたのだった。だから、隣接する緑区に新病院を作る話が出ると反対者も多く、議論は次第に「医」と「生活協同組合」の本質まで突き進んでいったという。しかし、50年前とは時代も社会も世界もが大きく変わってきているのだ。会員誰もが、少子化と不況と競争社会の中で地域が崩壊しつつある事を知っていた。家族や町内を結んでいた絆が薄れて、無縁社会が間近に迫っていることも知っていた。こうした状況下で、生活協同組合の会員同士が内向きに繋がっていることが正しいのか? 地域社会が崩壊したら、生活協同組合そのものの存続も在りえないではないか。そうした議論を繰り返しながら、会員たちは開かれた生活協同組合とは地域社会に連携していくものだと考えるようになった。そうした観点にたつと、新しい病院は地域復活の拠点になりえるのではないか・・。『自分たちが率先して地域づくりに参加しよう』眼から鱗が落ちるような発見だった。では自分たちが考える地域づくりとは何か? 実感できる地域の理想とは何か? その答えが「だんらん」だった。

「だんらん」は誰にも分る易しい言葉だ。南医療生協の人々の笑顔と親切を丸く包んだ安らぎを表す言葉だ。イデオロギーでも論理でない、普通の人が肌で実感出来る言葉だ。
しかし、一方の現実社会では、「だんらん」は掌でかすかに揺らめいている灯火のような心細い存在だ。なぜなら、電車の中でも、会社でも、道端でもマンションの通路でも、更に言えば家庭や家族でも・・我々の社会は他者への無関心と不親切と不安感が満ち溢れているではないか。こんな日本はもう嫌だ! 大人も子供も日本中が悲鳴を上げているような気がする。
人間が安心して生きられる社会とはどんな形をしているのか? 『6万人の会員たちは必死考えて、「だんらん」に行きついたのです』僕は彼の言葉を聞きながら、55年前、岩手県の豪雪の寒村で深沢晟雄村長が目指した沢内村を思い出した。「すこやかに生まれ、すこやかに育ち、すこやかに老いる」沢内村は小さな集落だから実現できた。しかし、人口の大半を占める都市社会では、戦後65年の歳月でも実現できず、逆に遠ざかろうとさえしている。
僕は笑いと親切の行き先が「地域だんらん」なら、それはやがて、「だんらんにっぽん」に拡がって行って欲しいと願う。「だんらん」は旧くて新しい言葉だ、僕は会員という生活者たちの発見と行動を、「愛知・南医療生協の奇跡」と呼びたい。この映画作りは、安住の未来を求める人々の壮大な夢、その具現の旅を追う映像の記録である。

Biography

1939年、愛知県生まれ。
1965年、今村昌平監督に師事し、今村プロダクション結成に参加。1975年、今村監督とともに横浜放送映画専門学院(現在の日本映画大学・日本映画学校)を創立する。現在は映画監督、プロデューサー、学校法人神奈川映像学院(日本映画大学・日本映画学校)相談役。シネマネストJAPAN創立者。
主な作品に、『復讐するは我にあり』(1979年、プロデューサー補)、『ユリ子からの手紙』(1981年、監督)、『楢山節考』(1983年、助監督)、『民と匠の伝説』(1994年、監督)、『掘るまいか 手堀り中山随道の記録』(2003年、プロデューサー)、『いのちの作法 沢内「生命行政」を継ぐ者たち』(2008年、製作総指揮)、『1000年の山古志』(2009年、プロデューサー)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年、製作総指揮)などがある。

監督/小池征人

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〔記録映画の出発に当たって〕 無縁社会から「有縁社会」へ

 三百万人の死者という敗戦の膨大な屍の教訓から戦後の日本社会は出発した。人々は、ひとしなみに貧しかったが、会社や家族という「共同体」を築き、生活の基盤としてきた。だが、そうした「関係性」のあり方を可能にした高度経済成長の時代がおわるとともに、個人の分散化と社会的孤立化は深刻化してきた。現代日本は荒涼たる無縁社会だ。雇用が崩壊し、地縁共同体の支持母胎がついえ、若者が未来に夢を描けなくなる。人々の絆は薄れ、中高年の自殺や孤独が増え、無縁社会が全面化する。

 「個人」が独立しつつ、いかにして他者と繋がって、新しい有縁なコミュニティを創造することができるのか。かつて当然のこととして存在した居住地のもつ教育力・福祉力がなくなった。それが市民社会を揺るがしている。居住地が養う社会的精神と身近に多様な人たちのいることは、教育環境であり福祉環境である。「居住福祉社会」とでもいうべき社会を、新しい文化として作り上げる仕事が、今日の課題となってきた。

 人と人がつながり、社会をつくる力を「社会力」とすれば、希望をつくる生活の根拠地としての地域福祉論を規範に、「互恵的協労社会」と命名する有縁なコミュニティを、想定する。社会を組織化するという思想である。地域とは心の視力が誕生する場所であり、人間の絆と関係性を形成する社会資本の別名である。

 悲しみの分かち合い、優しさを与え合う社会。その原形と思想を愛知県南部で活動する南医療生活協同組合の五十年の営為にかさねる。福祉とは幸福という意味である。居住福祉社会とは地域を拠点に幸福を実現する社会のことである。映画の骨格はその協同の情熱と根拠の在り方を記録することである。

Biography

1944年、満州生まれ。
1967年、中央大学法学部を卒業する。東京大学新聞研究所に三年間所属、日高六郎氏に師事。その後、土本典昭監督の下で助監督として記録映画づくりを学ぶ。
主な監督作品に、『人間の街 大阪・被差別部落』(1986年)、『日本鉄道員物語1987』(1987年)、『脱原発元年』(1989年)、『免田栄・獄中の生』(1993年)、『白神の夢 森と海に生きる』(2003年)、『いのちの作法 沢内「生命行政」を継ぐ者たち』(2008年)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年)などがある。

撮影/一之瀬正史

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ただいま撮影中

 議論の場が多い南生協の撮影は、キャメラマンにとっては厳しい。一台のキャメラのみで撮りきることや、三脚を立てることが不可能な場合の手持ち撮影は、アートというより肉体労働そのものだ。しかも、たいていの会議が2時間以上は持続する。画(え)本位ではなく、言葉を中心にチャンスを選択しなければならないこともなかなかに応える。
 会議が多いのはこの生協の特徴でもあるようだ。職員や各ブロック・支部の役員は会議の連続に忙しいらしい。しかし一般組合員であれ役員であれ、また職員であっても平等に発言機会が保障されているシステムには驚かされる。また、みんながユーモアと、したたかな冗談を活きいきと語るのにも驚かされた。
 組織が組織として自立拡大していく源泉には、そのような「機会保障」や活性化が欠かせないと思える。
 この機会に大いに“労働”し、汗を流し、学び、「健康」を獲得したいと考えている。

Biography

1945年、山梨県生まれ。
1965年、日本大学芸術学部映画学科を中退。その後、各社の劇映画、PR映画、TV-CFなどの撮影助手に従事。
主な撮影作品に、『わが街わが青春 石川さゆり水俣熱唱』(1978年)、『人間の街 大阪・被差別部落』(1986年)、『よみがえれカレーズ』(1989年)、『ナージャの村』(1997年)、『アレクセイと泉』(2002年)、『いのちの作法 沢内「生命行政」を継ぐ者たち』(2008年)、『バオバブの記憶』(2009年)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年)などがある。

助監督/藤崎仁志

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南医療生協の映画を撮影するにあたって

 2010年3月、ひょんな事から、武重プロデューサー、小池監督、一之瀬カメラマンと共に、南大高に新しくオープンするという南生協病院を訪れた。
 病院では内覧会が行われていて、最初は「変わった病院だな」という程度の印象だった。しかし、取材が進んでいくと「ここは本当に病院なのか?」という疑問が沸いた。何故なら、僕が持っている病院のイメージとはあまりにも掛け離れていたからだ。病院を医師ではない人が案内し、医師ではない人が医師と同じ立場で議論している。僕の常識では考えられないことだった。そしてその人たちは皆、生き生きとしている。
 2010年10月、本格的な撮影の為に名古屋市南区に滞在し、何度も病院で撮影を行っているが、その度に「ここは本当に病院なのか?」という疑問が沸いてくる。しかし、それは生き生きとした人々が作り出している雰囲気なのだということに気がついた。この生き生きとした人々の笑顔をフィルムの一コマ一コマに焼き付けることが出来たら、どんなに素晴らしいことだろう。

Biography

1983年生まれ。日本映画学校22期卒。

撮影助手/吉田晃太

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映画班会の役目

 雨降りの朝、スタッフの宿舎にやって来た看板。七色、手書きで“地域だんらん”の文字。壁に掛けられた瞬間、スタッフの顔に晴れ間が差した。冗談交じり、「僕達は映画の班会」と小池監督。
 南医療生協のカレンダーを見れば、毎日どこかで班会が行われている。健康チェックを中心に食事会、ウォーキングなど、年間で行われる班会の数は700を超えるという。
 班会では、誘い誘われした組合員(時には非組合員も)が集まり、お互いの健康状態の確認はもちろん、日々の悩み、暮らしの知恵を交換、共有し笑いながら帰っていく。
 個人の尊重が叫ばれ、個人主義、個人情報のなんたらと、人間同士の距離が拡がるばかりの世の中において、班会というものが異質的で不思議に感じてしまう自分がいる。
 しかし、それは知りたいという欲求も起こさせる。彼らが何故つながるのか、何が彼らをつなげるのか。その秘密を解き、記録することが僕達映画班会の役目だ。

Biography

1986年生まれ。日本映画学校22期卒。

編集/村本勝

Biography

1958年、静岡県生まれ。
國學院大學を中退後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)へ。『日本鉄道員物語1987』(1987年)で編集者としてデビュー。
主な編集作品に、『ベンポスタ子ども共和国』(1990年)、『琵琶法師山鹿良之』(1992年)、『魚からダイオキシン』(1992年)、『蜃気楼劇場』(1993年)、『紅』(1996年)、『Heavenz』(1998年)、『アレクセイと泉』(2002年)、『自転車でいこう』(2003年)、『バオバブの記憶』(2009年)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年)など多数。

録音/若林大介

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我が家へようこそ

 2010年3月、初めて訪れた南生協病院。医療生協スタッフたちはまるで自宅に招いているかのように映画班を迎え入れた。
 ここは看護師たちの意見、ここは専門医達の意見、ここは自分達の意見、と嬉々満面で施設を案内するスタッフ達。その笑顔の華やかさ故、この病院ができるまでの苦労を感じとることができた。
 多くの人の意見をまとめるのは非常に大変だ。多人数で会議を行うと、往々にして意見の個性が失われ無難な意見へと変容する。意見の個性が失われないのは、意見を出し合う人々の相互に、相手に対するリスペクトがあるからであろう。南医療生協の活動の歴史があったらかこそできたであろう、個性あふれる人の尊厳を重んじた施設だ。
 我々映画班も規模は小さいが多人数で映画をつくる。南医療生協から学べることはたくさんあるはずだ。また学んだものを発信していくことが今回の仕事になるのだと思う。今から非常に楽しみである。

Biography

1978年、東京都生まれ。
2001年、日本映画学校録音ゼミ卒業(13期)。その後、録音助手を経て、現在、デジタル化した日本映画学校の録音スタジオの管理、およびデジタル録音の指導を務める。
主な録音作品に、『いのちの作法 沢内「生命行政」を継ぐ者たち』(2008年)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年)がある。

音楽/森拓治

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命を通しての感動

都市における命のつながり、そしてその広がりの先にどんな未来があるのか…
このテーマは私の身近に迫りくる問題としても深い思慮を伴います。
命シリーズ3部作の2作品(いのちの作法・葦牙)そして今回の作品の作曲に携れることは、命を通しての感動をどう音楽で伝えるのか、更なるチャレンジを試みます。

Biography

1944年、東京生まれ。
1957年、灰田晴彦(有紀彦)氏にウクレレソロを師事。成城大学文学部・音楽美学科に在学中、芥川也寸志氏にオーケストレーションを学ぶ。
大学卒業後、日本映像記録センターに入社し、300作品の音響ディレクターとして活躍。主な作品に、『人間の教育 少年は何を殺したか』(1976年)、『わが街わが青春 石川さゆり水俣熱唱』(1978年)、『いのちの作法 沢内「生命行政」を継ぐ者たち』(2008年)、『1000年の山古志』(2009年)、『葦牙-あしかび- こどもが拓く未来』(2009年)などがある。