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 90才すぎて自宅で転倒され、デイケアに行くようになっても、新聞を持参して休憩時間に読んでおられます。高齢になると、目の調子もあって、ものを読むのが大儀になるものです。勉強会にも熱心に参加され、渡された資料なども、その日の内に読んでしまわれ翌日に連絡すると、その感想をしっかり述べられるのです。数年前から手押車を押してどこへでも行かれる前田さんと、集会などに同行していました。昭和二十四年の社会医学会の時は、名古屋駅まで友人に送ってもらわれ、大阪駅まで私が迎えに行き、タクシーで高槻の宿につきましたが、私が特に介助することはなく、横を一緒に歩いているだけです。
 翌日から二日間関西大学の学会に手押車で出席され、質問したり、意見をのべておられました。杖をつかれている方はおられましたが、車椅子や手押車の方は他に見かけませんでした。足がご不自由でも頭がさえておられ、更に勉強されているので、〝老い〟を感じさせられるものは感じていません。上手に老いておられると申しますか、あやかりたい人生と思って尊敬してまいりました。みんなでお金を出して建てた保健婦資料館にも多額の寄付をされ、退職後も保健師が住民とともに歩む存在であってほしいと、発言され続けてこられたのは、ご立派と思います。
 今回武重監督のご援助で自伝映画ができあがり、後輩として喜んでおります。

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 前田さんは足が不自由で介添えの女性がいないと外出できません。従って今回の撮影は室内のインタビューが殆どで、その当時の現場へ出て話を伺うことがまったく出来ませんでした。スタッフにとって唯一の心残りというか、残念なことでした。
 2013年の夏、いよいよこの映画をまとめるに当たって、監督な庄内川の辺でラストシーンを撮ると決めたのです。やっとのことで前田さんに岸辺まで来て頂きインタビューが始まりました。室内のインタビューと違って今日は表で、大河を前にしてのお話です。しばらく前田さんは、これまでの長い人生を振り返っておられるようでした。そのうち、ご主人のことに触れられ「一番自分を愛してくれ、理解してくれた人だった」と言われた時、目尻に静かに光るものが見えたのです。声も微かに震えておられました。こんな切なそうな前田さんは初めてでした。あの強い前田さんが見せた初めての涙。前田さんの圧倒的な思いの深さに胸を熱くしたものです。

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「前田黎生95歳の旅路」、本作の題にある様に、前田さんの人生は1世紀に迫るものだ。僕の生きてきた年数の3倍以上、そう考えると途方もなく感じた。
 2013年の暮れ、前田さんが倒れて入院したとの連絡が武重監督より入った。命に別状はないとのことで安心したが、映画の完成する見通しも立っていなかった。武重監督からこの映画の編集を依頼されたのはその時だ。正直悩んだ。編集経験の乏しい僕に務まるのだろうか? しかし、何度も撮影を手伝った事で前田さんとの親睦は深まっていたし、何よりもここで手伝わなかったら彼女が生きているうちに映画が完成しないかもしれない、そんな思いが僕に編集依頼を引き受けさせた。
 2014年に入って間もなく、今度は武重監督が入院してしまった。なんということだろう、映画の構成もままならない状況で編集しなければならないのか、まるでゴールがどこにあるのか分からないマラソンが始まってしまったかのような、そんな絶望感に襲われた。しかしそれを払拭したのは当の武重監督であった。
 病室から毎日送られてくるメールに添付された「構成プラン」。それを頼りにしながらその都度編集し、映像にして送り返した。
 繰り返すこと数ヶ月、気が付けば95年に及ぶ物語が紡ぎ上がっていた。映画が完成した今、例え絶望的な状況でも何とかなる、何とかするしかない、前田さんの人生もきっとその連続だったのだろうと痛感している。彼女の記録は、時代を越え、世代を越え、多くの人の胸に突き刺さるに違いない。

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