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「暴動の最中に産まれる」

名古屋市中川区に住む前田黎生(まえだあけみ)さんは95歳の保健婦さんです。
大正7年(1918年)、彼女は吉川佐七と妻カネの娘として大阪の米騒動の暴動の最中に生まれました。当時の日本は大正デモクラシーと労働運動の嵐が吹き荒れるカオスの時代でした。前田(旧姓・吉川黎生)さんは生まれて15日目に名古屋に住む乳母の元へ預けられます。派遣婦看護婦の母親が生活の為に病院へ戻ったからでした。年若い父親は青鞜社に憧れるひ弱な文学青年、妻カネの支援で薬剤師の養成校に通う学生でした。

4年後に彼女は父母の元に戻りますが、幸せは束の間、9歳の時に父親が突然失踪し家庭は崩壊してしまいました。母親は滋賀の青果商と再婚するが、前田さんは環境に馴染めず女学校を卒業すると名古屋に家出します。しかし、何の資格も持たない16歳の少女が都会で暮らすのは不可能です。彼女は町医者に住み込み奉公し、看護助産婦専門学校へ通い始めました。
「私は望まれて生まれたのではないのだ・・?」
前田さんが述懐するように、父の失踪と母の再婚は思春期の少女の心を苦しめました。
後に彼女の「弱者の側に立つ」生き方に大きく影響を与えたと思われます。
この看護学校で彼女は左翼運動をしている友人と出会い、数奇な運命を迎えることになります。

「名古屋無産者中央医院」で働く

准看護婦の資格を取ったにも拘らず、彼女は病院の奉公義務を拒否して製陶工場の女工になりました。夕方仕事を終えると、近くの「無産者診療所」に出向いて貧しい人の健康診断や簡単な医療行為をしていました。「無産者診療所」とは共産党の医者たちが貧しい労働者を救済するために無料診断を行っていた診療所です。しかし、日支事変が激しくなると医者たちは拘禁されたり最前線に送られて戦死したりして誰も居ません。
多くの患者が前田さんを頼りに集まってきました。「私が多くの人に必要とされている・・」前田さんにとって生まれて初めての体験・・貧しい人の為に働く日々は素晴らしく充実したものでした。

「理由もなく、治安維持法で4年も投獄される」

226事件で日本の議会政治は崩壊し戦時が色濃くなってきた昭和11年12月6日の朝、
八百屋の二階に下宿していた前田さんは水上警察の特高刑事に連行されて留置されました。
この日、治安維持法・予防拘禁に基づく一斉検挙者は全国で1000名余り、名古屋では50名が検挙され唯一の女性が前田さんでした。
しかし、彼女は共産党員ではないし運動家でもありません。単に無産者診療所でボランテア活動をしただけで、罪の意識もありません。困った警察は10か月後に名古屋控訴院にに送り、裁判所は彼女を女子刑務所に3年間拘置した挙句、執行猶予て釈放しました。

面白いのは、貴重な青春の4年間を奪われたにもかかわらず、前田さんが特高刑事や看取たちに対して恨みや悪意を持っていないことです。外国船を見学させてくれた水上署員、銭湯の前で見張ってくれた特高刑事、拘置所で詩歌を教えてくれた婦人刑務長・・。
終戦後、前田さんは当時のそうした関係者たちと仲良く交際してきたそうです。何か不思議ですが、その根底には、刑務所を一度も訪問しなかった母親への「切ない失望」が在るのかも知れません。保健婦・前田黎生を考えるときに、「無視された存在」と「無視されたくない存在」は重要なキーワードのように思えます。

「名古屋初の保健婦になる」

出所した前田さんは滋賀の母親の元に身を寄せるが、田舎町の風評に耐えかえて名古屋に戻ります。「やっぱり、私は生まれてこなければ良かったのだ」自暴自棄な気持ちでした。
そんな或る日、法規義務で保護司の家を訪ねた彼女は、保護司夫妻から娘のように優しく向かえ入れられました。保護司の名は戸谷銀三郎、名古屋市民病院の院長で後に名古屋市立大学の初代の学長になった人です。戸谷銀三郎氏は自ら前田さんの身元保証人になり、誕生したばかりの名古屋市西裏保健所に就職させてくれたのです。
「私を人間として認めてくれる人が居た」彼女は生まれて初めて他人から差し伸べられた温かい手に感涙・・まさに運命的な出会いでした。
昭和17年4月、24歳の前田さんは地域看護の国家試験に合格。名古屋市の最初の保健婦として新たな人生を歩むことになったのです。

西裏保健所は誕生したばかりで、まだ専門家は育っていません。保健婦の仕事も手探り状態でのんびりしたものでした。前田さんの仕事は、毎日住宅地を歩き回り干してあるオシメを探すことでした。母子の健康相談が保健婦の仕事だったのです。
「仕事は簡単だが、地域を足で回り住民との絆を作っていく・・今でも保健婦の仕事の原点だと思ってる」 前田さんはそう朮懐します。
昭和17年には初めての空襲があり、保健所も戦時体制で泊まり込みが増えてきました。
そんな折、風邪で寝込んでいた前田さんにプロポーズしてきたのが事務長の前田釟三氏でした。農家の次男坊で人の好い1メートル80センチの巨漢、前田さんが惹かれるインテリではないが無口で心の広い人物でした。
「事務長だから、私の前歴は全部知った上でのプロポーズだわね・・」
前科者として結婚などは諦めていた前田さんでしたが、釟三氏の心意気が嬉しく結婚に踏み切りました。「私を必要としている人が居るんだ」前田さんの世の中を見る目が少しずつ変わっていきました。

昭和18年、前田さんは結婚を機に保健所を退職、前田釟三の妻として子育てに専心していました。ところが終戦を経た昭和25年6月、結核性脳膜炎で釟三氏が急死したのです。突然の事態に、五歳と三歳の子供を抱えた彼女は途方にくれます。
三か月後の9月、前田さんは保健所の仲間たちの尽力で名古屋市西保健所に勤務することになりました。32歳のカムバック、保健婦・前田黎生の保健道人生が始まります。

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「保健婦も人間・・精一杯、自由に生きよう!」

終戦後、日本の保健所はGHQの指導により公衆衛生の専門機関として大きく模様替えしました。結核、性病、地域の衛生管理などが中心で、前田さんは追い付くために猛勉強しなければなりませんでした。もう一つ、戦前とは変わったのが女性の参政権獲得と合法的な労働組合の存在でした。
前田さんは組合に入り、「住民のための保健行政の在るべき姿」について現場からの声の発信に努めました。行政のマニュアルだけでなく、現場の保健婦の実感を反映すべきと考えたのです。「困っている人の側に立つ」前田さんの保健婦道は医療に社会性を取り込んだもので、彼女自身の人生経験を強く反映したものでした。

「20年ぶりに解き明かされた父親の謎」

そんな或る日、彼女は母方の従姉から長い手紙を貰いました。手紙には、「子供の頃、黎生さんのお父さんが遊びに来て、黎生さんが生まれたのを嬉しそうに話したのを覚えている」と書かれていました。
「生きている内に、あの手紙を読めて良かった・・」
前田さんは嬉しそうに「生まれてからずっと父親を恨んでいた」と明かしてくれました。
平塚雷鳥に傾倒していた父親が、雷鳥の娘の暁生をもじって「黎生」と名付けたことも手紙に書かれていたそうです。
前田さんはこの瞬間から、「祝福されない誕生」の呪縛から解放されたのかも知れません。
「あのころから、私は本気で保健婦に成ろうと思った」
前田さんは勉強熱心で情熱や行動力を持った人です。組合の広宣部長として活躍し始めました。

彼女は父親譲りの文才を活かして、市役所有志の同人誌「とけいだい」に参加して多くの詩を書きはじめました。作品は心象風景をシンプルに描いたものですが、時代の流れの中の自分の生き方を表現しているようにも見えます。彼女はいかつい社会運動家ではなく、繊細な神経や感性を持った女性だったのです。

「11歳年下の獣医を愛した苦しみ」

再就職して2年目に、彼女は大学を出て赴任してきたばかりの若い獣医と恋愛関係に陥りました。34歳の前田さんは23歳の獣医との結婚を考えますが、二人とも中々踏み切れません。思いあまった彼女は、獣医に組合の委員長に相談に行くよう仕向けます。普段からリベラリストを任じている委員長なら、必ず結婚の後押ししてくれると思ったのです。
ところが彼女の策は裏目に出てしまい、獣医は次第に彼女から距離を置き始めます。
獣医は委員長たち大人に諭され正気に戻ったのでしょう。彼は問い詰める前田さんに「僕は死ぬまで十字架を背負って生きて行くつもりだ」と告げ恋愛は終焉します。

私達が彼女からこの話を聞いたのは撮影を初めて1年目の事でした。92歳の前田さんが60年程前の話を昨日の事のように話したのには驚かせられました。
人生で唯一の恋愛・・未だに愛を乞う彼女の奥底の「人間」や「女」の部分に触れたような気がしました。保健婦という人間はいない。保健婦の前にまず前田黎生という人間が在ることを教えられた瞬間でした。
この恋愛事件は、前田さんの中に再び「私は必要のない人間」のトラウマを呼び戻すのですが、もはや小娘ではありません。彼女はその思いを振り切って保健婦の道に邁進していきます。

「目を転じれば、世界が見えてくる」

昭和43年(1968年)、50歳の前田さんは係長になり、東京の国立衛生院へ1年近い研修を命じられました。
この研修には全国から係長クラスのベテラン保健婦が集まり、全寮制で毎日6科目ものカリキュラムを学ぶハードな授業です。前田さんの手元に今でも3冊のノートが残っていますが、ノートにギッシリ書き込まれた文字を見ると、彼女が如何に勤勉に取り組んだか、彼女の意気込みと能力の高さがよく分かります。

この研修で前田さんは「土曜会」という保健サークルに出会い、大きな影響を受けます。
「土曜会」には保健婦だけでなく学者や研究者が沢山参加しており、「保健の世界」が保健所を越えた存在であること彼女は初めて知ります。
名古屋という地区で保健道を模索していた自分は、保健医療に社会的な観点を加えたが、実は歴史的観点が欠けていたのだ。前田さんは土曜会を通じて全国の保健婦さんと交流し、やがて、「全国自治体保健婦の集う会(略称・集う会)」の結成に動き出します。
しかし、保健婦だけで全国規模の会合を開けるのか。会場を確保し、宿泊場所を確保し、運営事務を司る。この大仕事を一体、どこの保健婦が引き受けるのか?
参加者が困惑し黙り込んだとき、「名古屋で引き受けましょう!」と手を挙げたのが前田さんでした。

翌昭和44年1月15日、「第1回、全国自治体保健婦の集う会」は小雪の舞う名古屋の逓信会館で開催されました。当日、全国から集まった保健婦さんは50名、バラバラに散らばった日本の保健婦さんたちが互いに繋がった瞬間でした。これにより、前田さんの名は全国の保健婦に知られるようになったのです。前田さんが一番輝いた時でした。
「集う会」は4年間名古屋で開催され、毎回、参加者は増え続けて1000名を超えるまでになりました。5年目からは大阪が引き継ぎ、以後、各地が交代で主催し続いています。
昭和48年(1973年)、前田さんは55歳の定年を迎え名古屋市の保健所を去りました。

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「保健所はやめても、保健婦として生き続ける」

保健所をやめた前田さんは、企業から乞れて産業保健婦として働きはじめました。
最初は給食会社でしたが、検査表に書かれた大腸菌の量が異常に高いので注意したところ、企業秘密を外部に漏らした・・内部告発者との理由で解雇されました。
2番目に務めたのが地元の信用金庫健康保険組合でした。前田さんは社員の健康相談を担当したのですが、銀行員たちはノルマに追われ、結核や心臓障害を病んでいるものが多い事を知ります。この信用金庫には気に入られて9年間務めましたが、前田さんは産業保健婦が本来の保健業務ではなく、会社の労働管理に利用されていることに気づき業務改革を強く呼びかけました。

70代から80代にかけて、前田さんは消費者団体や高齢者生活協同組合で活躍しました。
通常、これらの組織は社会運動家たちによって運営されるのですが、前田さんの立脚点は常に「困っている者の側」にあり、保健婦の視点で運営してきました。
勤勉で努力家の彼女は高齢にも関わらず多くの専門誌に記事を書き、また「とけいだい」に詩を書き続けています。

「15年戦争医学医療研究会の衝撃」

80歳の日、前田さんは上京して或る医療研究会に参加して大変な衝撃を受けました。
満州事変から始まった15年戦争で、医者や医療機関が犯した犯罪が次々発見されたと報告されたからです。前田さんは、名古屋の西裏保健所の2階で徴兵検査が行われていたことを思いだし、もしかしたら、自分たち保健婦も屈強な兵隊を作るために利用されたのではないかと考えたのです。 だとしたら、自分たち戦前の保健婦には戦争責任が在るのではないか・・前田さんはその年から「15年戦争医学医療研究会」の会員になり、学者に混じり今日までの10年間、研究会に参加しております。

「保健婦・前田黎生95年の旅路」

95歳の現在でも、前田さんは杖つきながら安曇野の「保健婦資料館」でのセミナーや各地の講演会や研究会に出向きます。一体、何が彼女をそこまで突き動かすのか? 
その情熱は何処から来るのか? 計り切れない彼女の保健婦魂です。

「私は良い保健婦ではないから、保健婦でなく人間として描いてほしい」
私達が撮影を申し込んだとき、彼女が答えた言葉です。成程、前田さんは頑固で一徹で扱いづらいお婆さんかも知れません。
しかし、前田さんの1世紀近い人生を辿るに従い、私たちは彼女の中に膨大な孤立感や矛盾が存在し、それらの不幸を跳ね除けてきた人間らしい誇りや優しさを感じます。
幾つになっても、決して保健婦を止めようとしない毅然とした人間の矜持を感じるのです。

また一方で、前田さんの中に女性としての正直な生きざまを見ることもあります。
母性とは異なる、めろめろ燃え上がる炎のような妖気です。
私達がこれまでお会いした保健婦さんにはない、常ならぬものです。
もしかしたら、前田黎生さんは「日本の保健婦さん」のイメージを超えた、女性の本質そのものなのかもしれません。

「新たな観点から保健所と保健師を見直す」

今回の撮影を通じて学んだ事が幾つかあります。昭和20年の敗戦で荒廃し尽くした日本社会の再生に取り組んだ保健所や保健婦さんたちの存在の大きさ・・に驚かされました。
また、前田さんの「保健婦は地域住民に寄り添い、信頼されなければ意味が無い」と言う言葉は決して古い過去のものではなく、いま現在、我々の時代が直面している地域社会の新たな再生・・人間の絆づくりを実現できる唯一の可能性が保健所や保健師では無いかとも思いました。若い保健師さんたちが、目標を掲げてぜひ挑戦して欲しいものです。

この度の作品は、「日本の保健婦さん」シリーズの第1部だと考えています。
様々な保健婦さんを描くことは、この国の歴史が辿ってきた曲折や試行錯誤を発掘し、また、日本の女性史に光を当てることだと確信しています。

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