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「日本映画学校OB牧場」編集長の杉山です。
新たに開設されたこのサイトでは随時、OBの皆さん其々の記憶に強い印象を残した、学生時代や卒業後の今村昌平監督とのエピソードを募集しております。
横浜時代、研究科に進んだ学生宛に、今村監督がアドバイスなどを葉書に書かれて出されていたらしいという噂もありますし、横浜放送映画専門学院・日本映画学校を通じ学院長と歴代学生の、交流の長い歴史の中には、個人個人の記憶に刻まれている今村昌平の言葉やエピソードが、きっと埋もれているに違いありません。皆さん、是非、教えてください! 互いに発信し合い、体験を共有し、「OB牧場」の宝ともなるであろう、今村昌平研究の端緒を開きましょう。宜しくお願いします。

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今村昌平監督は「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞しただけでなく、生涯に数多くの輝ける日本映画を作ってきました。
彼の生涯における映画、脚本、戯曲等は数多くの内外の映画評論家や研究者により分析され著述されております。

勿論、如何なる創作作品も結果がすべてでありますが、今村作品の場合には制作プロセスに監督はじめ全スタッフの膨大なエネルギーがつぎ込まれているのが特色です。したがって、当サイトの「作品研究資料」は上記の専門家による作品論とは別に、今村作品がどう企画され、どう撮影されてきたかを今村組スタッフ及び映画学校OBの体験を通して書き記していく予定です。

これは研究書でなく、いわば今村昌平と監督作品のインサイドレポートです。
当初は武重邦夫が「愚行の旅」で記述した部分の採録からスタートしますが、武重が撮影現場に参加していない作品については、それぞれの作品のチーフ助監督の皆様に執筆をお願いしたいと思っています。日本映画大学の学生をはじめ、多くの今村作品研究者の参考資料になれば幸いです。

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1975年、今村昌平監督は横浜駅の東口のスカイビルに2年制度の「横浜放送映画専門学院」を立ち上げました。日本で初めての映画を教える専門学校です。カリキュラムに農村実習を取り入れた超ユニークな学校でした。
12年後の1986年、学院は川崎市新百合ヶ丘に移転し、3年制度の専修学校「日本映画学校」になりました。双方の学校を合わせた卒業生は7,000名弱に及び、映画、TV、演劇界に多くの逸材を送り出しました。

2011年に4年制の映画大学が誕生、現行の日本映画学校は来年度を持って終焉します。今村さんが学校を創立したのが50歳、自ら映画を作りながら、学生たちに映画教育を通じて人間学を伝えてきました。70歳を機に学校に姿を現すことが少なくなりましたが、今村監督の創作の姿勢やDNAは学校講師たちにより学生に手渡されてきました。

学院長、理事長、学校長であった今村さんはクラスやゼミを持つことが出来ませんでしたが、演出講義や製作指導、研究科指導には自ら進んで参加しました。
また、今村プロダクションの撮影現場では多くの卒業生たちと共に汗を流し、映画作りの神髄を身を持って教えても来ました。2006年の5月、今村さんは79歳の生涯を終えましたが、混濁した意識の中でも学生たちの事を気にしておりました。

今村さんが他界して間もなく7回忌が来ます。
日本映画学校の学生でも、18期以降の学生は今村さんの姿すら見ていないでしょう。ましてや、今村さんの没後に誕生した映画大学の学生には名前すら知らない者もいるはずです。しかし、今村さんが居なくても、その創作の精神は学校全体に脈々と流れ続けているはずです。

今村昌平監督はどんな人だったのだろう?
スケベで獰猛で身勝手で真面目で勤勉で、それでいて誰よりも魅力的だった今村さんの巨きさに、改めて触れてみたいと思います。
このサイトでは、全国のOBの皆さんに呼びかけて、今村監督との思い出のエピソードを集めていきたいと考えています。
OBの皆さん、たった一言の出会いでも結構です。今村ワールドにあなたの思い出を投稿してください。


募集中

編集部では現在、今村昌平監督の「思い出」原稿を広く募集しています。皆様の思い出を是非お寄せください。字数は400字から1,000字程度。今村監督との関係性・氏名・年齢、横浜放送映画専門学院 or 日本映画学校のOBの方(中退でも可)は第何期・出身ゼミも書き添えて、下記までメールをお送りください。宜しくお願い致します。

メールアドレス sugiyama@cinemanest.com

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今村プロが歌舞伎町に在った頃は忙しかった。酔いどれ女優や極貧スタッフが遊びに来るだけならまだしも、エロ事師や駄目ヤクザ、破産したボルネオ大将や破門された生臭坊主、サービス精神旺盛なサギ師、歌舞伎町の売春ホステスから親の旅館を食い潰したスケコマシの馬鹿息子と・・思い出しても数え切れないほどのグウタラどもが今村プロに漂着し、おんぶお化けのように今村さんに纏わりついていたのである。
「イマヘイさんは魑魅魍魎が好きやからな・・」などと映画監督の浦山桐郎は面白がっていたが、グウタラたちは半年もしないうちに確実に過ちを犯し、後ろ足で砂を浴びせ姿をくらますのが常だった。そしてその度に、彼らを期待し励ましていた今村さんは裏切られ、怒りの咆哮を発しなが尻拭いに奔走していたのである。
もう40年の前のことだが・・・僕らはそうして映画を作り続けてきたのだった。

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■今村昌平(いまむらしょうへい)
映画監督、脚本家。1926年9月15日、東京生まれ。早稲田大学文学部を卒業。松竹大船撮影所に入社。『楢山節考』(1983年)と『うなぎ』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度最高賞(パルム・ドール)を受賞するという快挙を成し遂げた(他にフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる)。

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