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第1章 第四回

第1回・沢内調査 沢内の現在形を求めて

僕たちは、沢内村を俯瞰で一望できる場所を求めて、南の寺と呼ばれる玉泉寺の裏山の頂上にある“一本杉”を目指して登っていた。
「昔の『自分たちで生命を守った村』の映画を撮影したときは、あそこから撮影したんですよ」
沢内村役場(現・西和賀町役場沢内庁舎)で泉川道浩さんとお会いした後、借りていたビデオを返しに六戸商店に寄った僕たちは、照井富太さんにこの場所を教えて頂き、早速、登ってみることにしたのだった。
木々がうっそうと茂る細い道。夏のうだるような暑さの中で、山の急傾斜を登るのはなかなか厳しい。
あまり体を動かす方ではない僕たち兄弟は、体に無理をかけないよう、ゆっくりと登っていた。
その横を助監督の中越くんがスイスイと登って行く。
中越くんは、百合丘にある自宅アパートから、バスを使わずに徒歩で映画学校まで通うなど、学生時代から健康的な生活を心がけてきた男だ。さすがに歩き慣れている。
横着していたことを、僕たちは少しだけ後悔していた。
「う~ん。どうしてもあのアンテナがアングルに入ってきちゃうね」
頂上から風景を眺めて、小池さんが困ったように頭を掻いた。
山頂からは、沢内村を南北に貫く県道1号線に沿って、各集落が密集し、細長く続いているとても沢内らしい様子が見事に一望出来た。
風景や地形から人間の生活を読み解くという小池さんの流儀から言えば、それは絶対に外せない情景だったと言っていい。
しかし、僕たちを悩ませたのはテレビ放送局の中継アンテナだった。
県道1号線に各集落が密集する細長い沢内村は、俯瞰で見ると、パンでフォローしなければ、その雄大な情景を切り取ることは出来ない。だが、パンをするとパンの終りの位置に中継アンテナが立っていて、どうしても情景を邪魔してしまうのだ。
小池さんはそこに頭を悩ませていたのである。
「撮影の人が来てくれたときに、色々と上手い方法を考えてくれるかもしれないし、また別なところがあるかもしれない。ここは第一ポイントとして押さえておこう」
しばらく考えて、小池さんは言った。
僕たちは、頂上でしばらく疲れた体を休めた後、山を降りた。

麓までついた頃、時計を見ると、ちょうど役場職員の泉川道浩さんと約束した時間になろうとしていた。
同じ太田の沢内村役場までは、車で行けばすぐである。僕たちは急いで村役場へと向かった。

仕事を終えて、静かになった役場のロビーで泉川さんは僕たちを迎えてくれた。
「実は、私は乳児死亡率ゼロを達成した年の生まれなんです」
話しはじめた泉川さんが言った。
僕たちは、それを聞いてとても驚いていた。なぜならば僕たちが書いた企画書の中にある映画の構成案に“1962年生まれの子どもたちの現在”というアイデアがあったからだ。
この作品を、ただの過去の回想物語にしない方法として、どうしても沢内の現在進行形の物語が重要になってくる。
そして、その物語と過去をつなげる要素がどうしても構成上、必要となってくる。
そこで、企画書をまとめながら僕たちが考えたのが、乳児死亡率ゼロを達成した年に生まれた子どもたちの現在を追うという方法だった。
しかし、それはあくまでも机上の空論。実際、沢内村に1962年生まれの魅力的な人たちが残っているかどうかは分からない。
そんな不安もあったので、彼の言葉を聞いたとき僕たちは“映画の大切な要素になるかもしれない”と興奮を覚えたのである。
泉川さんは、十数年前に村の青年会活動で活躍していたメンバーの一人なのだという。
青年会では毎月会報を出しており、村政へ一言物申すなど、かなり挑戦的なこともしていたそうで、本人は“若気の至り”と恥ずかしそうに語った。
そんな彼が深沢晟雄の存在を知ったのは、意外にも大学時代だという。
当時、発売された「村長ありき」を読み、初めて“生命行政”の成り立ちに感銘を受け、自分の生まれ育った地をとても誇りに思ったのだそうだ。
それまで恥ずかしいと思っていた“沢内出身”というイメージがそこから変わっていったと泉川さんは微笑んだ。
「沢内で頑張っている、泉川さんと同世代ぐらいの方って他にもおられるんですか?」
小池さんが泉川さんに聞いた。
小池さんは既に映画の構想を描き始めていた。それは過去に活躍した方々の証言を中心とした中で、現在形を見出していくのではなく、現在形の中から過去を紡ぎ出していくという構成だった。そのためには映画の軸として全体を引っ張っていくことの出来る活動を探し出さなければならない。
「そうですねぇ・・・・・・」
泉川さんはしばらく考えて言った。
「増田先生の息子さんはご存知ですか? 彼なんか良いかもしれないですよ」
増田進先生は沢内病院の元・院長で、約37年間、村の健康管理課(注1)課長を兼務し、生命行政の柱である沢内医療を支えた人物である。
増田先生は1999年に沢内病院を離れ、沿岸の旧・田老町(現・宮古市)の田老病院に移っていた。僕たちは、現地に入る前の調査で増田先生の存在を強く意識していたが、その家族に関しては何の意識もしていなかった。
「どんな方なんですか?」
沢内の現在と過去を描く人物が、こういった形でつながるとは予想もしていなかった僕たちは、思わず身を乗り出していた。
「増田洋という人で、自然観察とか、絵を描いたりとか結構、色々やってる人なんですけど・・・・・・。子供たちへのボランティアをやったりもしているようです」
泉川さんも記憶をたどって話している。
“彼こそ映画の軸となる人物となり得るかもしれない”
この話は僕たちの興味を惹いた。
しかし、時間が経つのは早いもので、残念ながら、その頃には既に北上へ戻らなければならない時間が近づいてきていた。
話は尽きないが、僕たちは役場を出ることにした。その僕たちを泉川さんは笑顔で見送ってくれていた。

わずか一時間程度の話だったが、泉川さんの話にはとても重要なポイントが詰まっていた。
“この点を調査し、突き詰めていけば映画が一つ形になるかもしれない”
そんな想いが僕たちの胸に渦巻いていた。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

注1=「健康管理課」
昭和38年、一層保健活動を進めるために設置された、村の健康を守る核となる部署。設置のきっかけは、地域で活動している保健師と村立病院のとのつながりがなかったことで、「村内で働く、保健に関係するスタッフの連携」が目的とされた。これにより、村の健康に関する情報は、全て健康管理課に集中。それを踏まえた村独自の活動が行なわれていった。救急医療はもちろんのこと、住民の健康づくりや環境改善も含め、医療の予防活動と共に、健康管理課と村立病院が一体となって拠点を作ったことから、地域全体に気を配り、健康を守っていく包括的な“ゾーンディフェンス”の体制をしいたことになったのである。健康管理課の最大の特徴は、村の部署が村立沢内病院の中に設置されていたことであり、“行政と医療の一体化”という生命行政の理想像がそこに反映されていた。
しかし、健康管理課は平成11年、増田進医師の退職と同時に廃止され、今は役場内に場所を移し、保健福祉課へと変更されている。

第1章 第三回

第1回・沢内調査 小池さんの流儀

調査三日目、僕たちは北の寺・碧祥寺を訪れた。事前にアポイントメントを取っていた太田祖電さんとお会いするためだ。
碧祥寺の応接間に通され、待っていると、太田さんがやって来た。その第一印象はさすがに“お寺の住職”である。落ち着いた風格のある様子を醸し出し、84歳の高齢とは思えない若々しい風貌だ。
僕たちは挨拶を済ませ、今回の企画について説明した後、『碧祥寺博物館』の1万5千(国指定の重要有形民俗文化財は約2千2百)点に及ぶ民俗資料のことについてから太田さんにお話しを聞き始めた。
太田さんが古道具に興味を持ったのは、まだ教育長として活躍していた昭和38年のことである。「教育委員会で民俗資料を収集、保存して欲しい」という国からの要請がきっかけだった。
高度経済成長の真っ只中にあった当時、古くから受け継がれてきた庶民の生活・文化が失われてしまうことを危惧して、民俗資料緊急調査が全国的に行なわれたのだ。
その調査を経て、太田さんは何でもないと思っていた古い生活用具の真の価値を見出して行く。
「人々が生活に使ってきた古道具たちには、それぞれの手垢や汗などの生活の跡が染み付いていて、そこにこそ人々の生きた証が刻まれている。そういったものを保存して残して行くことで、その後の人々にかつての生活を伝えて行くことが出来る。それはある意味では墓石より大切なものなのだと思っています」
古道具への想いを太田さんはそう語る。
“墓石よりも大切なもの”――とても印象に残った言葉だった。まさか墓を守るお寺の住職がこのようなことを言うとは思っても見なかったからだ。
まさに既成の概念にとらわれない“生と死”の価値観である。

この言葉は、縄文からの生活文化の中の“生命”を見つめようと言う僕たちにとって、とても大切な一言となった。

そして、太田さんは大切そうに古い小冊子を見せてくれた。
『湯澤民俗』(『湯澤』=『湯田・沢内』の略。第二号以降、秋田県湯沢市との混同を防ぐために、『沢内民俗』として第4号まで続けられた)と題されたガリ版の同人誌である。
この冊子は、敗戦後の価値観の大変革の中で、戦地から地域に帰ってきた若者たちとともに、もう一度、地域の民俗文化から新しい生き方を模索しようと発刊されたものだという。
編集委員には、太田さんご自身も含め、深沢晟雄や斉藤龍雄(注1)など当時の沢内の知識人の名前が並んでいる。
当時、この3人は新しい知識を吸収したいと願った青年たちが主催した「農民学校」の講師も勤めている。
民主化の波を受けて、各地区で青年会が結成され始めていた頃である。
この運動の中から青年革新同盟という運動体も生まれた。その中には、後に村議会の議長として、全国の町村議会最長の46年8ヶ月、亡くなる84歳となるまで活躍した故・北島 _男氏(注2)や前日にお会いした照井富太さんも参加していた。それはまさに沢内村の夜明けとも呼ぶべき時代であった。
こういった時代を原点として、深沢晟雄の思想は作られていったのだという。
そんな当時を知るための資料として、この冊子はとても貴重な出会いとなった。

『湯澤民俗』の中で、最も僕たちの目を引いたのが、太田さん自身が発刊に際しての思いを綴った、次の一文である。

「昭和二十年、終戦を迎えて、北方、南方、大陸から、沢山の私達同胞青年がこの廃墟の故郷に帰って参りました。海や、空や、陸に散っていった、幾百万の同胞を思う時、胸が張り裂ける心情です。
一体この世においてなにを信ずればよいのか。一切の価値観が大逆転した私達は、この人生を、この故里を、そして、本当の価値というものを、根本から問い直さねばならない思いで一杯です。
ここに、復員して帰ってきた同志が相い集い、何をすべきかを討論しつづけました。その結果、第一に、部落毎に青年会をつくり、その連合として、『沢内村青年連絡協議会』(会長太田祖電)をつくりました。第二に『沢内村体育協会』(会長太田祖電)をつくり、体育の振興をはかることになりました。
第三に、青年の学習の場として『農民学校』(講師・深沢晟雄、斉藤龍雄、米沢喜六、太田祖電)を、診療所内に開校しました。そして、第四に、この郷土の歴史、風俗、習慣、将来の展望を調査・研究する『沢内民俗の会』をつくりました。
これらの会は、本年(昭和21年)春以来の話合いで、一挙に誕生しましたので、私達の郷土にとっては、正しく、明治維新に匹敵する、青年による大変動であります」

ここには、戦中の混沌から新しい時代の光を見出した青年たちの生々しいほどの想いが表現されている。
この言葉にこそ、“生命行政”を実現に導いた原点が見えた気がしたのだ。
これもまた、この作品を具現化するためには大切な資料である。
僕たちは、『湯澤民俗』という貴重な資料との出会いに新たな力をもらい、碧祥寺をあとにした。

次に向かったのは沢内村役場だった。前日に照井富太さんが紹介してくれた、役場職員の一人、泉川道浩さんにお会いするためだ。
泉川さんとは一体どんな方なのか、「生命行政」の現在形を求めていた僕たちは、期待を込めながら、一路、車を走らせた。
役場に着き、まずは受け付けの方に泉川さんを呼んで頂いた。
しばらく待っていると、奥から体の大きな男性がやって来る。その方が泉川道浩さんだった。訝しげにする泉川さんに名刺を渡し、「映画を作りに来た者だ」と、自分たちの素性を説明する。
『村長ありき』に感動して映画化を決意したこと、照井富太さんに泉川さんを紹介して頂いたことなどを話して行くうちに、事情が飲み込めた泉川さんは「まだ、仕事中なので5時ぐらいに来て頂けますか。ゆっくりと話しましょう」と、笑った。

小池さんは、事前のアポイントメントを取らずに出掛けて行くのが好きだ。
そのため、相手の都合が悪くて時間潰しが必要になることも多い。相手が忙しい方だと、次の日とか、次の週とかになってしまうこともあるぐらいだ。
しかし、小池さんはこのやり方を変えない。
「この無駄が大切なんだよ。留守ならば、メッセージを残して行けばいい。それが相手の心に残ることが重要なんだ」
撮影期間中、一緒に訪ねた先が留守だったとき、小池さんは名刺の裏にメッセージを書き添えながら言った。
今の時代になんと古いと思われる方もいるかもしれない。僕たちだって正直、最初は驚いた。しかし、じっくり考えてみれば、その労力こそが人間の関係を築く原点のような気がしてくるのである。
それが長年、記録映画を作り続けて来た小池さんの流儀だった。

現在は、通信の文化が発達し、人と会わなくてもコミュニケーションを取ることが可能になった。しかし、姿の見えない電話やメールでは人の感情の襞はどうしても掴むことは出来ない。そして、それを利用し、悪質ないじめや勧誘をする人たちも多くなった。
そんな時代だからこそ、もう一度小池さんのように、直接、相手の所に足を運び、顔を見て人と話すことから、考え直さなければならないのではないかと思うのである。
実際、僕たちも小池さんと初めて出会ったときのことを思い出すと突然のことで驚きはしたが、それが嬉しく感じたものだ。相手の都合を考えず、訪問するのはエチケットに反するようだが、礼儀さえちゃんとわきまえていれば、必ずしもそうではないのだということなのだろう。これは僕たちにとっては意外な発見だった。
という訳で、仕事終了まで時間を潰さなくてはならなくなってしまった僕たちは、先日借りたビデオを返すために六戸商店へと向かった。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

注1=斉藤龍雄
1906年岩手県黒沢尻町(現・北上市)出身。東京帝国大学部医学部卒。医師。戦時末から沢内村の村医であった、妻・アヤとともに、戦後、村の診療所に勤めていた。深沢晟雄の良き理解者であり、良き議論相手。このときの議論が後の、“生命行政”の礎とも言うべき原則を生み出したのだという。深沢晟雄や太田祖電とならぶ、知識人として戦後初期の沢内村では有名だった。のちに、日本共産党岩手県委員長を努める。1960年没。

注2=北島暲男
大正9年2月1日生まれ。平成16年逝去。旧沢内村・村議会議長。昭和22年に村議会初当選。その後、平成15年まで当選を果たす。昭和20年から29年までと、昭和40年から逝去する平成16年まで村議会議長を務める。
岩手県町村議会議長会会長、全国町村議会議長会副会長などを歴任。昭和58年には地方自治功績により、藍綬褒章を授章する。村議会議員暦57年、議長暦46年という日本一の記録を持つ。
名物議長として知られた北島氏について書かれたノンフィクション『議場の鬼 ‐ 沢内村名物議長北島_男 反骨の46年』(滝沢浩 著)が発売されている。

第1章 第二回

第1回・沢内調査 出会いの原点

第1回調査の二日目。僕たちの車は沢内村をまっすぐに伸びる県道一号線を走っていた。
「ちょっと早すぎるからどこか見てこようか」
小池さんが言った。
午前中はかつて健康管理課の主幹を務めた照井富太さんとお会いする予定で、北上からということもあって早めに出発したのだが、予想よりも早く到着してしまったため、どのように時間をつぶすか思案していたのだった。
「長瀬野に行ってみませんか?」
“長瀬野”とは集落の名前で、『村長ありき』にも沢内村の重要な地域として登場する。長瀬野地区は行政とは別に、自主的に新生活運動を進めたり、独自の活動指針を持った、まさに“住民自治の原点”というべき場所である。
長瀬野の自主性や民主性がよく現れているのが、次の4つの方法意識だった。

1.調査眼を持つ。
2.指導者は引率型ではなく演出型の役割を演じ、組織の能力をフルに引き出す。
3.運動は一過的な終着駅型ではなく、途中下車型にして常に新しい目標を置く。
4.三「せい」運動(一人一人がせい、皆でせい、話し合ってせい)

深沢晟雄村長も長瀬野地区に注目していて、「村じゅうが長瀬野のようになっていくとき、そこに真の自治の力は生まれる」と感じていたのだという。
僕たちは長瀬野地区に車を走らせた。
「泉沢・長瀬野入り口」の看板に従って県道を曲がると、車1台分の幅しかない小さな橋が見えてくる。すれ違うことが出来ないので、対向車があるとどちらかが相手に譲り、交通を確保するため、住民たちが「互助橋」とか「ゆずりあい橋」、昔の人は「修身橋」などと呼んでいる『八年橋』だ。ここを渡るとそこに長瀬野がある。
橋を渡ると目の前に不思議な風景が飛び込んで来た。集落の中心に広場があり、各家々が綺麗に整理されて建ち並んでいる。
「まるで公園の中に家が建っているようだ」
と、今でもその驚きを表現する長瀬野集落との出会いだった。
長瀬野集落は昭和46年に集落再編事業(国の集落再編成モデル事業のひとつでもあった)を行い、これまで住んでいたところから新しい地域づくりのために、第一次で35世帯、第二次で17世帯が現在の新集落に移転。そして、新集落では、上下水道の整備や集会場や広場といった住民たちが集まることの出来る場所などが計画的に配置されていったのである。
僕たちは集落の中心にある、長瀬野会館の前に車を停め、集落を歩いてみることにした。
歩きながら、広場を中心に広がる家並みを見ていると、それだけでこの地域の一体性とその力が見えてくるように感じられた。
小池さんの口癖の「風景を読み取る」という意味がおぼろげにだが、感じられた瞬間だった。
「そろそろ時間ですね」
誰ともなく、時計を確認し声を掛け合う。
集落内の散策の足を止め、僕たちは改めて照井富太さんと会うために、六戸商店に向かった。

「これがおよね地蔵か……」
夏のジリジリと焼けるような日差しと、抜けるような青空の下、僕たちは六戸商店の側にある浄円寺を見学していた。
というのも、照井さんを訪ねて、六戸商店に顔を出して見ると仕出しの弁当作りに店内は大忙しの状態だったのである。家族総出で、当然、照井さんも一緒になって仕事をしている。
「これが終わるまで、どこかで時間をつぶしておいてください」
照井さんが言った。様子を見る限り、すぐに終わりそうもない。仕方ないので僕たちは近くのお寺を見学してみることにしたのだった。
沢内村の太田地区には県道沿いに三つのお寺が並んで建っている。現地の人が“北の寺”と呼ぶ『碧祥寺』と“南の寺”の『玉泉寺』。そして“中の寺”が『浄円寺』である。
なぜ、浄円寺に足を運んだのかと言いうと、沢内村のWebサイトでそこに「およね地蔵」があるという情報を得ていたからだった。

“およね”とは、宝暦の大飢饉の頃、南部藩の容赦ない年貢米の取り立てに苦しむ村人たちを見かねて、名主らのすすめに応じて人身御供となった、実在の女性のことと言い伝えられている。この哀話が長い間、語り継がれるうちに民謡『沢内甚句』で歌われるようになった。
“沢内3千石 お米の出どこ 升ではからねェで 箕ではかる”
表面上は南部藩の隠し田とされた沢内通りの豊かさを歌ったように聞こえるが、実際は「お米」は「およね」であり、「箕」は「身」を現している。『沢内甚句』とは支配者への抵抗と、およねへの感謝が込められた歌なのである。
この「およね地蔵」はおよねの生家があったと言われる新山地区から、浄円寺に移されたもので、僕たちが行ったときもひっそりと静かに佇んでいた。
かつて沢内の多くの人々が経験して来た、豪雪と貧困による悲惨な歴史を代表して語るものである。改めて、そのことを考えながら、僕たちはお墓の奥へ足を踏み入れていった。
そこで僕たちの目についたのは、すこし高台になったところにある、誰の目から見ても他のものより古い、お墓だった。気になって誰からともなく近づいて行ってみる。
「あっ!」
僕たちは驚きの声をあげた。そのお墓には『深沢晟雄』の文字が刻まれていたのである。この古ぼけた墓石は、「生命行政」を叫び、村人たちのために命をかけた深沢晟雄村長のものだったのだ。

現地に足を踏み入れてまだ2日目。僕たちは誰の案内も無く、偶然、引き寄せられるようにこの場所に辿り着いたことに衝撃を受けた。東京・青山で及川和男氏の著作『村長ありき』と出会ったことと同じように、自分たちの意志を超えた何かが、“映画を作れ”と導いているようなそんな風に感じられた。
僕たちは、記録映画の制作の実現と深沢村長の偉業をもとに映画を制作させて頂くことに対するご挨拶を兼ね、深沢村長のお墓に線香をあげた。
その後、浄円寺を出て僕たちが向かったのは隣にある八幡神社だった。ここには多くの言い伝えがある「大銀杏」がある。
「凄い巨木ですね」
「大銀杏」は本当に見事な迫力のある木だった。空を突き抜けて立ち、空を覆い尽くすように枝と緑の葉が茂り、まさに“神木”と呼んでもおかしくないような、そんな存在感に満ちている。その根本を見てみると、無数に分かれた根っこがしっかりと地面に張っている。表面の土にはコケがびっしりと広がって、緑色の絨毯を敷いたような光景だ。
「ここは水が豊富なんですね。沢内村という名前が示すように水に恵まれた地域なんだ」
小池さんが言った。
「こういう木は撮影するのが大変なんだよ。どうやってフレームに収めるか、カメラマンはいつも頭を使うんだ」
小池さんの中では既に撮影するときのイメージが膨らみ始めていた。
それから神社の境内で雑談をしたあと、僕たちは改めて六戸商店へ向かった。

六戸商店へ行くと、仕出しの仕事も一段落したところで僕たちは二階の大広間に通された。
しばらく待つと、照井さんがやって来た。
それぞれ自己紹介をしたあと、武重さんが企画書を渡して今回のプロジェクトの概要を説明していく。
「よく勉強していますね」
企画書をめくりながら、照井さんは笑顔で言った。
初期の企画書には、昭和30年代に行なわれた沢内村の保健行政の年表が入っていた。
それは「村長ありき」などの書籍や沢内村のWebサイトをもとに、何時間もかけてまとめたものだが、僕たちは“本当にこれだけで良いのか?”と不安になったりもしていたので、照井さんのこの言葉にはとても励まされ、嬉しかった。
確かに初期の企画書は未熟なものだったが、その時の精一杯を書くことが出来れば、その想いは相手に伝わるのだと感じた。
「深沢晟雄に出会って人生が変わった」
照井さんは言った。祖父と父親を戦争で亡くし、14歳で一家を背負った彼は、家族を養っていくため、金を儲けることを全てとし、がむしゃらになって生きてきた。
深沢村長の選挙運動に参加し、“生命尊重”の考えに影響を受けた照井さんの価値観は一変する。なによりも苦しんでいる村人たちを原点に村政を考える姿に「金儲けよりも大切なもの」を発見したのである。
「地域格差や経済格差を言う前に、人命の格差があってはならない」という深沢村長の言葉に代表される哲学が照井さんを変えたのだった。
その後、「健康管理課」の主幹となり、生命行政の一端を担うことになる。
照井さんはとても80歳になるとは思えない明瞭快活な語り口で、当時を振り返る。
「照井さんと出会ってこの企画はいけると思った」
武重さんが、後々そう語るほどこのときの出会いは印象的なものだった。過去の出来事に端を発した今回の企画にとって、照井さんのような生き証人の言葉が撮れるか撮れないかで、作品の魅力は全然違うものになってしまう。照井さんの姿は僕たちの不安を消し去ってくれたのだった。

深沢村政時代のお話を一通り聞いたあと、小池さんが照井さんに聞いた。
「今、沢内村で頑張っている若い人……、40代・30代で頑張っている人たちっていうのはどなたかいますか?」
そう、今回の調査の大事なポイントである“沢内の現在”を担う人物を探し出そうというのだ。
「そうですね……、頑張っていると言えば、良くウチに集まって深沢晟雄の勉強会をやっていた若い役場職員の人たちがいるけど」
「お名前教えて頂けますか?」
このとき、照井さんに紹介して頂いたのが畠山幸雄さん、泉川道浩さん、高橋光世さんの3人だった。現在、『記録映画制作西和賀後援会』の事務局を勤めて下さっている方々である。
当時はその後の展開など考えてもいなかった。とにかく僕たちは事前のミーティングで問題となっていた“沢内の現在”を紐解く糸口と出会えるのではないか、という期待を抱くのみだった。

お話しが終り、帰ろうとすると照井さんがビデオを持ってきてくれた。
「これはご覧になったことはありますか?」
『自分たちで生命を守った村』という岩波新書と同名タイトルの記録映画のビデオだった。事前調査でその存在は知っていたが、入手することは出来ずにいたものである。
「昔の沢内の様子が分かります。なにか参考になると思いますよ」
僕たちはビデオを借り、照井さんの家を出た。
「明日は照井さんに紹介してもらった3人に、会いに行ってみようか」
小池さんが言った。僕たちはこの日の大きな収穫に意気揚揚としていた。

振り返ってみれば、第1回調査で照井富太さんに紹介して頂いた多くの方々が、今後、『いのちの作法(仮題)』の制作を支えていって下さることになるのである。
そういった意味でこの日は、正に人々との“出会いの原点”だったと感じている。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

第1章 第一回

第1回・沢内調査 ふるさとの風景

2005年8月22日、早朝。僕たちを乗せたバスは北上駅前のバス停に着いた。
天気はあいにくの曇り空。お盆を過ぎた岩手の朝は肌寒く、東京スタイルでやって来た僕たちは改めてその距離感を実感していた。
「空が広い」
初めて岩手を訪れた中越くんがボソッと言った。どうやら彼のふるさとである高知県とはだいぶ風景が違うようだ。僕たちから見ればいつもどおりの北上市の風景である。高校卒業まで10年以上も親しんできた風景だ。
思えば小学校2年生の頃、僕たちはこの風景の下で『ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟』という『ウルトラマン』の制作現場を舞台としたテレビドラマに出会い、映像制作の道を夢見たのである。
ドラマの中に出てくる大人たちは会議室に集まり、子どもたちに夢を与えようと真剣に“空想”を広げていた。
監督、特技監督、脚本家、カメラマン、助監督……。
スタッフそれぞれが、それぞれの仕事の立場から意見をぶつけ合い、ひとつの作品を生み出していたのである。

「こんな世界があるんだ……」
こんなドラマを見たら普通なら、特撮のタネが全て分かってしまい、ヒーローに対する夢が壊れてしまうはずなのだが僕たちは違った。
『ウルトラマン』を作り出す男たちの姿に夢を見出し、友達を何人か集めて“映画を作ろう”とビデオカメラを手にしたのである。
1994年、小学6年生の春のことだった。
それ以来、僕たちは高校を卒業するまで怪獣映画をはじめ、様々な作品を制作した。
高校に入ると、制作する映画の作品性は“人間”を主体としたドラマ作品に方向転換。「新人監督の登竜門」的存在である“PFFアワード”や“イメージフォーラムフェスティバル”など様々なコンテストに出品するようになったが、なかなか入賞することは出来なかった。
そして、僕たちは独学の映画制作に限界を感じ、映画作りを原点から学び直そうと日本映画学校に入学したのである。

初めて映画を撮ってから11年。
僕たちの原点である北上の風景からプロとしての映画作りが始まろうとしている。映画学校では企画も通ることもなく、1年の実習から3年の卒業制作に至るまで、末端のスタッフを務めるしかなかった僕たちに、ふるさとがチャンスを差し伸べてくれたのだと考えると何だか感慨深かった。

しばらく雑談していると、僕たちの父親が車で迎えにやって来た。
「お兄さんですか?」
父を一目見た小池さんから、得意のジョークが飛んだ。
父は1959年生まれで、当時46歳。
現在、大学4年生の娘さんがいる小池さんにとっては意外なことだったのだろう。
武重さんも小池さんのジョークに乗って、「ウチの学校の学生でも通じそうだ」などと言って場を笑いに包んだ。

初対面の緊張をこうした形で和ませ、一行は父の車に乗り、宿泊場所となる僕たちの実家・とどり接骨院へと向った。
実家では母が食事を用意して待っていた。 僕たちは母の用意した食事を頂き、バスでの疲れを取るために少々の休憩をとり、午後からの役場の表敬訪問のために実家の車を借りて出発の準備を始めた。
車の運転をするのは小池さんだった。普通に考えたら“監督に運転させるなんてとんでもない!”という状況だ。しかし申し訳ないことに、この頃、僕たち兄弟は運転免許証を持っていなかった。それに加えて中越くんもペーパードライバーで運転をほとんどしたことがないという。
「いいですよ、僕が運転しますよ」
調査直前のミーティングのときに小池さんが言ったのだった。
「ここから行くなら北上西インターから高速使うと早いですよ」
父が地図を見ながら小池さんにアドバイスした。
確かに高速で隣町・湯田町の湯田インターまで行けば、かなり時間の短縮が出来る。しかし、小池さんは県道を使って時間をかけて沢内村まで行くことにした。
「風景を見ながら行きたい」
小池さんは言った。
「この風景を見ているだけでも、そこに住む人たちの生活が見えてくるんだよ。そこから物語を読み取らないと」

“風景を読み取る”―――この後、様々な現場で小池さんが口にする言葉である。
なぜ、ここに田や畑があり、家があるのか? 社があり神が祭られているのか? その意味を考えることで、集落の物語が生まれてくる。その発見が映画を作る際の重要なヒントになるというのが小池さんの持論だった。
高速道路やバイパスを使ってしまっては、その大切な発見の機会を逃すというのだ。
「無駄をすることは意外と大切なことなんだよ。速いことだけが良いことじゃないんだ。今の世の中は、スピードと効率を重視して見失っているものが多い気がする」
小池さんが言った。
ハッとする言葉だった。確かに、社会は無駄を排除する方向で進んでいる。
これは小池さんが『白神の夢』でテーマにしたことだった。200分という長さも含め、“白神山地”という悠久の時間の中で形作られた場所を記録することで、スピード重視の現代社会への警鐘を鳴らしたのだ。
小池さんの提案を受け、国道107号線を通って風景を見ながら、時間をかけて沢内に向うことになった。僕たちは時間に余裕を持たせ、実家を出発した。

まず僕たちが向かったのは沢内村役場だった。電話で親切に対応して下さった、新田晟訓助役に表敬訪問するためだ。
約束の13時に役場に着くと、新田助役は保健師長の高橋美紀子さんと、保健福祉課の内記忠課長とともに僕たちを迎えてくれた。あいにく、村長の高橋繁さん(現・西和賀町長)は外出中という。
話を切り出したのは武重さんだった。『掘るまいか』の旧・山古志村での映画作りで中山間地の価値を見出したことから始まり、日本映画学校のことやスーパー・スタッフプログラムについてなど、僕たちの素性をこと細かに説明した。
そして、本題の沢内の映画についての話だ。僕たちの『村長ありき』との偶然の出会いやそこから勇気を得て、「このことを風化させてはいけない」と考え、いつか映画にしたいと心の中で暖めていたことなどを説明していった。

1時間ぐらい話をしたころだっただろうか、高橋村長が役場に戻ってきて話の中に加わった。高橋村長は学校の先生をしていた関係などもあり、地域の歴史に詳しく、村の広報に『沢内年代記』を自ら現代語に訳して掲載していることや、僕たちの苗字である“都鳥”の由来など様々な話を聞かせてくれた。その情熱的な語りはとても印象的だった。

「深沢村長のことなら六戸商店のおじいちゃんに聞いてみると良いですよ」
話をはじめてしばらくして、高橋村長が企画書を読みながら言った。
「照井富太さんという方でね、健康管理課に努めておられた方なんです」
照井富太さんと言えば、「村長ありき」の中の重要な登場人物のひとりである。
当時の関係者である人物と接する糸口が見えた。何の当てもない僕たちにとって大事な出会いになるかもしれない。スタッフの中に緊張が走った。
「その方は、まだお元気でおられるんですか?」
小池さんが聞いた。
記録映画なのだから、たとえ当時の関係者と会えたとしてもインタビュー出来なければ意味がない。小池さんはそこを気にしているのだ。
「ええ、今でもとても元気です。一度お会いになられて見てはいかがですか?」
高橋村長は言った。
僕たちは、六戸商店までの道のりを教えて頂き、早速行ってみることにした。

六戸商店は車で5分程度の距離の場所にあった。雨の中、小池さん、武重さんと一緒に店の入り口に向うと、店内から杖をついた老人が出て来た。
僕たちの心に「もしかして、あの人が照井さんでは・・・・・・」という予感があった。
とりあえず、店に入り店員さんに声をかけると「さっき出て行った人がそうですよ」という答えが返ってきた。
慌てて僕たちは店を出て照井さんを探した。
照井さんは駐車場で車に乗り込もうとしていた。僕たちはすかさず声をかけ、簡単な挨拶と映画の企画について話をした。
はじめは“なんの騒ぎだ”と訝しがっていた照井さんだったが、話を聞くうちに、次第に表情が変わっていった。
「今日はこれから出かけてしまうけど、明日なら時間がとれるから午前中にでも顔を出して下さい」
照井さんが微笑んだ。
僕たちはホッと胸を撫で下ろした。
外からきた僕たちにとって、こうやって村内の住民たちに受け入れてもらえるかどうかが一番不安な点である。照井さんの表情は僕たちの緊張をほぐしてくれた。明日への期待が膨らむ瞬間だった。
その後、僕たちは碧祥寺博物館を見学した。
碧祥寺博物館の展示品は1万5千点を超えるというのだが、実際に館内を観覧すると、昔の人々が使った生活用品の数々が、圧倒的な迫力を持って、僕たちの目に飛び込んでくる。

「いやあ、あそこの博物館は凄かったねぇ。ずっと見てたら目が回っちゃったよ」
と、今でも武重さんが口にするほどのインパクトだった。
ちゃんと全ての展示品を見て周るとしたら、1時間や2時間なんかでは足りないのではないかと思えた。
“これだけ多くの物を収集する、太田祖電さんとはどういう人なのだろうか?”
と、取材を前に太田祖電という人物に対する興味が広がった。

碧祥寺博物館の見学を終え、僕たちは北上に戻ると近所に住む祖父がやって来た。
小池さんと武重さん、そして中越くんを歓迎し、焼肉パーティーをしようというのだ。
両親と祖父とともにする久々の食事。しかし、今回は映画のスタッフとして宿泊させて頂いている身でもある。
なんとなくリラックスしてしまう心と、“駄目だ!駄目だ!”と思う心の微妙なバランスの中で調査初日の夜はふけていった。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

プロローグ 第五回

出発 第1回・沢内調査への道

「先日は、調子の良いことばかり話し過ぎちゃったなと反省してます。熱が冷めないうちに次の話し合いを持ちたいんですが……」
初対面から数日が過ぎたある日、小池さんから電話があった。
その日から、僕たちは週一回のミーティングを持つようになった。まだ事務所も何もない状況である。ミーティングはもっぱら映画学校近くの専門店ビルの中にある喫茶店で行なわれた。
そこには「村長ありき」をまとめたレジュメを作成していた中越くんも助手として呼ばれ、今後の方針が固められていった。
「医療や福祉という狭い目線で見てたら、間違うよ」
小池さんは、これまで様々なメディアで描かれて来た生命行政の捉え方に異を唱えた。
「沢内村には深沢村長時代よりも遥かに昔から人々が暮らしていて、その文化や価値観を築いていたのだから、そういった視点からもっと広く沢内という場所を見た方が、より一層深い映画になるんじゃないかな」
小池さんが「白神の夢」を通して学んだもの。それは縄文から続く東北の力だった。遅れていて、貧乏で、弱者であるという東北の価値観を、「白神の夢」という一本の作品を経て見事に変えられたのだという。
“地域にへばりついて生きていく人々の生き様の1ページとして「生命行政」を描きたい”
小池さんは東北の持つ力を沢内でも描き出したいのだった。
今まで、狭い目線で「生命行政」を捉え、そこの中だけでウンウンと首を捻っていた僕たちにとって、そういった目線の据え方自体が面白く、また勉強にもなった。
“地域を根底から描くこと”
そういった話が進むにつれ、やはり話は現地調査の必要性という部分に向かっていった。

「やっぱり、現地に行ってみないことには始まりませんね」
ある日、小池さんが言った。
「うん。だから、監督と都鳥兄弟のうちのどちらかがね、一回調査に出かけるとかそういう形が良いかと思うんだ」
以前のメールにあったように、僕たちには一人分の調査費しかない。武重さんは僕たちへのメールと同様の提案を小池さんにした。
しかし、小池さんは、武重さんや中越くんも含めて5人全員が行くことを主張した。
「全員が(沢内村に対して)共通の印象を掴んで、映画のイメージについて議論を膨らませて行きたい。現地を知るのと知らないのとでは議論の内容が変わってくる。テーマに対してスタッフは平等なのだから、皆が現地に行って、現地を感じるべきだ」
それが小池さんの想いだった。
“確かにそのとおりだ”と僕たちも武重さんも感じていた。皆、そうしたいと思った。
しかし、それは同時に“予算”という現実問題との戦いでもある。僕たちはどうすれば、全員での調査を決行出来るのか、最良の方法を探した。

「僕たちの実家に泊まる、というのはどうでしょうか?」
8月も過ぎ、そろそろ調査の日程を決めなければいけないという時期を迎えたころ、ミーティングで僕たちはそう提案した。両親に相談し、僕たちは二人の中で沢内の隣町・北上市にある、自分たちの実家に宿泊することを考えたのだ。低予算の中、全員での調査を実現させるための苦肉の策だった。
「俺は良いけどさ、監督にはビジネスホテルぐらい取ってあげなきゃ駄目じゃないかね」
武重さんは、仕事として声をかけた小池さんにプロデューサーとして、とても気を使っていた。しかし、小池さんは「今までの仕事で贅沢しないことには慣れているので大丈夫です」というのだ。
「それならば……」
と、武重さんも“都鳥家宿泊”の方向で考えを決めた。残るは岩手までの移動方法と現地での移動手段だけだ。
新幹線、レンタカー、その他に様々な方法を考えた結果、岩手までの移動には高速深夜バスを使うことに決めた。ちょうど、映画学校のある小田急線・新百合ヶ丘駅から急行でひと駅先の町田駅から、北上駅前まで深夜バスが出ている。
現地での移動手段は実家のエスティマを使うことになった。普段生活では使わない旅行用の車なので、調査の期間のみ貸してもらうことにしたのだ。
こうして、スタッフ全員での調査が出来る状況が整った。

次に僕たちが取り組んだのは、“予算問題”のために手付かずになっていた、現地の人々とのアポイントメント調整だった。
「太田祖電さんに会いたい」
東京での調査で見つけた「沢内村奮戦記」を読み、小池さんが言った。
太田祖電さんは真宗大谷派碧祥寺の住職で、深沢晟雄が村長を務めていた頃に教育長として活躍した人物である。
太田さんは深沢村長亡き後、村長を引き継いだ久保俊郎氏のもとでも教育長を努め、その退陣後は村長として20年間に渡り、沢内村の生命行政を支えてきた人物である。
小池さんはそんな彼の“「人間と自然は一体である」というところから再出発しよう”という、“いのち”への目線の持ち方に興味を持ったのだった。
「西洋は狩猟民族なので、哲学も殺すというところから始まっている。東洋は草食なのでものを生かす、育てるという、生かす哲学である」という太田さんの考え方は、生活の中から生命行政を見つめようと考えていた僕たちにとって、とても興味深い視点だった。

しかし、小池さんが太田さんに関心を持った理由はそれだけではなかった。
太田さんは、『碧祥寺博物館』として境内の中に歴史民俗資料館を持っている。そこには雪国の歴史を語るには欠かせないカンジキや馬橇などの雪国生活用具やマタギ狩猟用具など、1万5千点を超える展示品があるというのだ。
縄文から続く東北の力を描くためにはこの存在は欠かせない。小池さんはこの博物館にも高い関心を持っていたのである。

早速、僕たちは太田さんに取材を申し込むために碧祥寺に電話をかけた。
「今、日本で忘れ去られている大切なことをもう一度地域から、自分の郷里から記録映画という形を通して見つめなおしたい」という、僕たちの制作意図を聞き、太田さんは快く取材を受け入れてくれた。
「いいですな、それは大切なことです」
そう言った太田さんの穏やかな声が、今でもとても印象に残っている。

段々と調査のスケジュールも固まっていく中で、沢内村役場への表敬訪問も予定された。
僕たちには何のツテもないので、電話調査の際にとても対応が親切だった村役場の方々から沢内村に住む重要な人物たちを紹介して貰えれば、と考えていたのだった。
村役場では電話調査後の僕たちの状況も気にかけており、とてもすんなりと僕たちの訪問を受け入れてくれた。
これを受けて、第一回調査のスケジュールは役場の表敬訪問の結果と現地での発見で、臨機応変に対応して行こうということになった。

そして、8月21日。沢内村へと出発する日がやって来た。
僕たちはどう表現したらいいのか、よく分からない感情になっていた。“緊張感”、“期待感”、“不安感”……、とにかく色々な想いが渦巻いていた。
その当時は目の前のことに一生懸命になっていたからそうだったのだろう。今から考えれば、その中でも一番強かったのは、やはり“緊張感”だったと思う。なにせ、プロとしての映画作りは初めて。しかも、映画学校時代には全く勉強して来なかったドキュメンタリーの制作がこれから始まろうとしているのだ。しかも、自分たちの企画である。こんなに喜ぶべきことはないし、恐ろしいこともない。
そんな複雑な気持ちを抱えたながら、僕たちは集合場所の町田駅バスターミナルへ向った。
深夜バスの出発時刻よりも早めに僕たちがバスターミナルに着くと、既に小池さんが来ていた。軽く会話を交わしていると武重さんや中越くんもやってきた。出発を前に全員が揃い、いよいよ僕たちの緊張は深まって来ていた。
そして、22時10分。僕たちを乗せたバスがゆっくりと走り出した。
出発後、すぐに消灯時間になりバスの中の明かりが全て消える。感情が高ぶり、僕たちはなかなか寝付くことが出来なかった。
それでもバスは僕たちの想いをよそに着実に岩手へと向かっていた。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

プロローグ 第四回

小池さんとの突然の出会い

“僕たちの企画書を読んで小池さんからどんな反応が返ってくるのか?” 
その答えは、思いがけない形で僕たちに届いた。

「今、小池さんから、これから学校へ来ると電話があった。お前たちもいた方が良いと思うからすぐ学校に来てくれないか」
ある日の夕方、バイトまであと一時間というときだった。武重さんから突然電話があった。
こういった場合には、まず最初に武重さんと小池さんとの間で、やりとりがあり、小池さんが監督を引き受けることが正式に決定したあとで、紹介があると考えていた僕たちにとって、小池さんがいきなり学校にやって来るということはとんでもない不意打ちである。
何がなんだか分からないが、ただごとじゃないことだけは確かだ。
普通の野暮用ならば、バイトを理由に「無理です」と答えるところだが、これはバイトどころの騒ぎではない。
「本当ですか? 分かりました。すぐに行きます!」
僕たちは、バイト先のコンビニに遅刻の連絡を入れ、急いで学校へ向った。

この日は一学期最後の授業日ということもあり、映画学校の講師室はたくさんの人で賑わっていた。
僕たちが学校に着いて間もなく、武重さんも講師室に現れた。
「まさか小池さんがいきなり学校に来るなんて思わなかったよ」
武重さんも予想外の事の展開に、驚きを隠せないようだった。こんなに困惑している武重さんも珍しい。
「まだ、小池さんが監督を引き受けてくれるかも分からないし、企画自体がものにならないといわれてしまうかもしれない。どうなることか……」
武重さんがボソッと言った。
3人の中に様々な想いが交錯していた。
緊張しながら僕たちは小池さんがやってくるのを待っていた。

律儀な小池さんは時間通りに顔を出した。
小池さんと僕たちは型どおりの挨拶を交わし、話が始まった。そこで僕たちが驚いたのは小池さんが自らの書庫から、沢内村について書かれた「荒廃する農村と医療」(注1)という新書本を持参して来ていたことだった。
かつて沢内村の“生命行政”が話題になった頃に出版されたものである。当時、小池さんは「日本の片隅にこうした素晴らしい村があるのか」と印象に残っていたのだという。
そして、若い人たちが忘れられ行く記憶を辿り大切なものを発見したことへの感動や、自分が忘れかけていた沢内の記憶を思い出させてもらったことへの喜びを熱っぽく語った。

企画に駄目出しをされるかもしれないという、僕たちの不安は一瞬にして消え去っていた。
それどころか、いつの間にか熱く語る小池さんの姿に引き込まれていた。
僕たちがこの日とても勇気付けられたのは、「テレビ番組になっていようが、何になっていようが自分たちの目線で丁寧に対象を見つめれば、絶対に自分たちだけの作品が出来る。何も不安がることはないよ」という小池さんの一言だった。
この一言のおかげで、あまりにも有名で様々なメディアに取り上げられてきた沢内村の生命行政を扱うという恐怖感がすべて取り除かれた。
僕たちはこの作品が、他の作品の二番煎じになることを一番恐れていたからだ。

記録映画はテレビドキュメンタリーと違って予算が潤沢にあるわけではないし、自分自身のギャランティーだって仕払われるかどうか分からない厳しい状況下で制作されることが多い。
しかし、良いものを作るためには、撮影日程やスタッフ編成など様々な条件が必要だ。小池さんは厳しい条件の中でそれを掴み取って作品を作ってきた人間である。
そうやって制作された「人間の街 大阪被差別部落」や「白神の夢 森と海に生きる」などの作品の質の高さにはとても定評がある。
小池さんは、きっとこれぐらいのことではビクともせずに荒波を渡って来たのだろう。
「頼もしい応援団が現れた。これで一歩前に進むことが出来るかもしれない」
僕たちはそう確信した。

そのときの小池さんの印象は、いつも何かを追い求めている野生の鷲と表現したら良いだろうか。おそらく本人は「全然違うよ」と否定するだろうが、少なくとも当時の僕たちの目にはそう写ったのである。
それに比べて何の心の準備も出来ていなかった僕たちは、小池さんとロクな話も出来ず、ただ講師室のソファに座っているだけだった。小池さんにはとても頼りなく写ったことだろう。
しばらくして、小池さんが武重さんに聞いた。
「監督はどなたを予定してるんですか?」
いよいよ話の矛先が核心へと向かった。
「小池さんが引き受けてくれると助かるんだけどねぇ」
武重さんの言葉に、小池さんは即答した。
「ご指名とあれば」
それが、監督・小池征人に決定した瞬間だった。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

注1=「荒廃する農村と医療」(岩波新書)
1971年 大牟羅良/菊地武男著。高度経済成長の流れの中で、出稼ぎや生活の近代化によって繁栄とも荒廃とも見られる変貌を遂げた岩手県内の農村の数々。そうした農村の変貌と、既存の金儲けの医療に対して誰にも等しく開放された医療を目指した岩手の医療運動を重ねて紹介していく新書。沢内村については第三章「歴史と現実から学んだもの」に書かれている。

プロローグ 第三回

活動開始 企画実現に向けて

武重さんとやりとりを重ねるうちに、問題はひとつの点に集約されていった。
その問題とは、作品の今日的な意味合いと沢内の現在形である。
この作品が記録映画である以上、作品がただの再現で終ってしまっては魅力が半減してしまう。沢内が初めて乳児死亡率ゼロを達成した1962年生まれの住民たちが、どのような現在を送っているのか? など様々な現在形を想像し、企画書を直していった。
しかし、どう頑張ってみても想像は想像でしかない。比重は「村長ありき」の中で描かれている過去の沢内村に置かれてしまう。こうなると今日的な意味合いも当然、薄れていく。
新聞やテレビなどで見る社会問題と照らし合わせて、なんとか現在へ沢内村を引き寄せようと試みたが、それも企画書に図太い芯を与えるには弱すぎた。
そういった企画書修正作業に合わせて、僕たちは沢内村役場への電話調査を始めた。
武重さんとの打ち合わせで挙げられたポイントは下記の5点だった。

1.当時の関係者の生存の有無。
2.当時の建物や村状況の保存状態。
3.当時の運動を映した映像資料の有無。ニュース映画、行政のPR映画など。
4.これまでにTVで番組化されたか? 何時頃、どの局で?
5.プロジェクトXになっていないか? 現在、製作中で無いか?

沢内村の「生命行政」は、かつて全国的に有名だった出来事である。 もし、「プロジェクトX」など、既にテレビ局や映画会社が作品の制作を始めていた場合、これから自分たちが「沢内村の映画を製作する」と名乗りを上げるのは困難になる。武重さんはその可能性を危惧していた。また、当時の関係者もかなりの高齢になっているはずで、その健康状態なども「生命行政」を描くに当たっては重要な問題のひとつだった。
また、「村長ありき」をエピソードごとにまとめたデータベースを作成するために、映画学校の同期で、僕たちと一緒にTakeshigeスーパースタッフプログラムに参加していた中越信輔が呼ばれた。
「中越のシナリオはアイデアや発想力はあるけど、人物造形が弱いんだよな。これをやって現実の人たちの常識では考えられない行動力や面白さを勉強すれば、想像だけではない人間が描けるようになると思うんだ」
映画学校では脚本演出コースを専攻し、卒業制作では監督も務め、スーパースタッフプログラム内でも様々なシノプシスを提出するなど、努力していた彼のために、武重さんが声をかけたのだった。

こうした流れを経て、企画書の第二稿が出来上がる頃、僕たちは本やインターネット上の情報だけでは限界を感じるようになっていた。どうしても企画書の内容が他者の見てきたこと、感じてきたことの受け売りになってしまうことにもどかしさを感じたのである。
そもそも地域の映画を作るのだから、実際に現地に行ってみないことには始まらないのではないか?
現地の空気を吸い、人々に会い、そこから僕たち自身が感じること、得ることが大切なのではないか? そう思い始めていた。
「沢内村に行きたい」
7月14日のメールで僕たちは武重さんに、現地調査が必要なのではないか、と訴えた。

それに対して、武重さんの返事は次のようなものだった。
「そろそろ現地調査を・・」は分かりますが、相手に企画書を提出するのは難しい問題です。その瞬間から相手は映画が実現すると勘違いして、期待するからです。
ましてや調査に協力してくれた人は、映画が実現しなかった場合には面目を潰され、当方を逆恨みする。こうしたことは多々在る事で、会社の信用にも拘る事になります。
最善の方法は、君たちの一人が、2泊くらいの日程で調査に行く事、その場合も企画書は見せても渡さない事です。
日程及び費用を算出して送ってください。
残念ながら、現在段階では調査に二人送ることは出来ません。
これはプロダクションの常識なので理解してください。
どちらが行くか、検討してください。
考えてみれば、当然のことだ。予算などどこにもないし、映画を実現できる保証もない。
僕たち兄弟のうち片方が行く。しかも相手側に企画書は渡さない。あくまでも若者の個人的な調査として、現地に入る。それが武重さんの思いつく、僕たちに対する最大の配慮だったのだろう。武重さんはリアリストだった。
映画界のマイナーリーグを築き、地域を活性化しよう、という壮大な理想と資金難という現実。
正直に言って、僕たちが落胆しなかったといえば嘘になる。
“自分たちにもっと力があれば……”
そう思うと悔しかった。
しかし、同日のメールにもうひとつ僕たちを驚かせるメッセージが入っていた。
この企画が映画として演出的に成立するか、ドキュメンタリー監督の小池征人氏に企画書と資料を明日送り、検討して貰う事になりました。
小池さんが監督を引き受けてくれれば、すぐにも営業活動を開始したいと考えて居ます。

小池さんといえば、映画学校の人間研究で特に評判の良い講師の一人である。僕たちも小池さんに習ったことのある友達のT君に、色々と話は聞いていた。

人間研究とは1年生が取り組む最初の実習で、1ゼミ20人の学生が2つのチームに分かれ、課題となる人物・事柄(これは各ゼミで学生たちが、自分の興味のあるものをプレゼンして投票によって決められる)の研究を行うものである。
人物・事柄に関する書籍や新聞・雑誌の記事などを調べるのは勿論、本人や関係者へのインタビューも行い、発表のシナリオを作っていく。大学の研究論文やレポートなどとは全く違う。いわゆるドキュメンタリー映画を製作するようなものだ。
ひとつだけ違うのは発表の仕方だけ。ビデオカメラなどの“動画”は使わずにスチール写真のスライドなどを使い、大教室で発表する。
だから、学生たちは発表の仕方にも様々なアイデアを凝らさなければならない。
小池さんの指導する班は研究の密度の濃さもさることながら、その発表のアイデアにも目を見張るものが多かった。
「もし、小池さんが参加してくれるなら、今自分たちがぶつかっている問題の打開策が見えてくるかもしれない」
小池征人監督という外部の人間が僕たちの企画をどう見るのか? 武重さんと僕たちの間にはどうしても学生と講師という関係が横たわっている。そこに外からの冷静な目線が入るのである。
そんな、しがらみの全く関係ない小池さんが“良し”とすれば、この企画は本物に違いない。
僕たちの胸には期待と不安が渦巻いていた。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

プロローグ 第二回

わが街の誇りを撮るまいか!

話は前後するが、2005年当時、武重さんは「わが街の誇りを撮るまいか!」というドキュメンタリー映画のシリーズ企画を構想していた。
この企画は日本の各地域に眠る、隠れた偉人や偉業、功績、伝統文化・芸能など“地域の誇り”と呼ぶべき事柄を映像に記録して後世に残そう、という想いからスタートしたものだ。
新潟県・旧山古志村の手掘りトンネル「中山隧道」の誕生秘話を題材に、当時の人々の生きることに対する情熱を描いた記録映画「掘るまいか」をプロデュースしたときに武重さんは気がついたのだと言う。
「日本人が戦後の60年で失ってしまった日本固有の精神文化、……不屈の精神や慎みの心、親から子へと継ぎ渡していく教育や価値観、ゆるぎない家族の絆……、そうしたものがここには残っている。今、混迷の時代にある日本に伝えるべきものが残っている」
山古志との出会いは、現代の日本に希望を与えるものだと武重さんは考えた。
「山古志に生き残っているなら、この広い日本列島、必ず“本当の日本”は残っている筈だ」
そこから「わが街の誇りを撮るまいか!」のアイデアが生まれた。

O君のプロジェクトに参加する前に、僕たちは「KAWASAKIしんゆり映画祭」(注1)のスタッフY君が作った草稿をもとに、「わが街の誇りを撮るまいか!」の企画書をまとめていた。そのとき、「掘るまいか」以外にも何か具体例が必要だと考え、書いたのが沢内村の「生命行政」のエピソードだった。

この前年(2004年)、僕たちは東京・青山の古本屋で沢内村の第18代村長・深沢晟雄について書かれた小説、「村長ありき−沢内村 深沢晟雄の生涯−」と出会っていた。ちょうど日本映画学校を卒業し、映画界というゴールの見えない無人の曠野に投げ出された頃だった。

僕たちは、けして要領良く物事をこなせるタイプではないし、頭もそんなに良いわけではない。運動音痴だし、喋りも苦手。他人に比べれば、実に弱い部分の多い人間である。映画学校でも特に才覚を振るっていたわけではない。
厳しい映画の世界でちゃんとやっていけるのかどうか、とても不安に駆られていた。
「村長ありき」に書かれた逆境に立ち向かう沢内村の住民たちの姿は、そんな僕たちに一筋の光を与えてくれた。頑張れる希望をくれた。
「いつか沢内村を題材にした映画を作りたい」
心の奥にそんな想いが生まれていた。
僕たちに勇気をくれた物語を風化させたくない。自分たちの生活の根底にこうしたかつての人々の努力や運動があったことを忘れてはいけない、と感じていた。
その想いを僕たちは「わが街の誇りを撮るまいか!」の企画書に託したのである。

「なんかいい企画があったら、企画書持って来いよ」

武重さんは先行していた山古志村の地震復興ドキュメンタリー「1000年の山古志」の他に2、3本、“わが街の誇り”と呼ぶに相応しい企画を探していた。
ただの例としてあげた沢内村を具体的な映画の企画にする。
今がチャンスだと僕たちは思った。
だが、沢内の「生命行政」は、知識や経験の少ない僕たちには大き過ぎるテーマであることは一目瞭然だった。
何せ村一つを抱え込むのである。そこに住む住民の想い全てが背中にのしかかって来る。その重さは計り知れない。自ら選んだテーマに押し潰されてしまうのではないかと、とてつもなく大きな不安と恐怖を感じていた。
僕たちは企画書を書くのを一瞬、躊躇した。チャンスなのに踏み切れない自分がいた。
しかし、これをやらなければ自分たちの映画人生が終ってしまうのではないかという、相反する気持ちもどこかにあった。
いつも僕たちは出来ない理由ばかり考え、怯えてしまい、何も行動せずに後悔ばかり繰り返してきた。

「人を刺すときは一気にやれ。少しでも躊躇すると逆に痛い目を見るぞ」
映画学校2年生の頃にお世話になった、細野辰興監督(注2)が最後の飲み会の場で学生たちに残したメッセージが頭を過ぎった。

何か事を起こそうとするときや、チャンスが巡ってきたときには、迷わず一気に掴みに行け、という意味の言葉だ。
「今がそのタイミングだ。またチャンスを逃すのか? 怯えていては何も前に進まないではないか!」
僕たちは決心した。もう後悔なんかしたくない。

それから一週間強、僕たちは少ない語彙を必死に操り、何とか武重さんに沢内の魅力を伝えようと必死に企画書をまとめた。
そして2005年7月2日、第一号企画書「生命、切り開くために」が提出されたのである。

沢内村のことを全く知らなかった武重さんは、東北の小さな村で“生命行政”という世界に類を見ない村是を掲げ、多くの逆境を乗り越えてきた人々がいたという事実に驚き、非常に興味を抱いたようだった。
「(自分の構想に)相応しい企画なので具体化したくなった」
当時のメールに武重さんはそう書いている。
今まで自分たちが書いた脚本や企画をここまで言ってもらったことがなかったので、正直、僕たちは戸惑った。嬉しかったけど、こうトントン拍子に行くなんて考えていなかったからだ。
なぜこうなったのか? やはり、沢内にはみんなを惹きつける魅力があったからだと思う。そして“生命行政”という、現在でも成し得ない哲学を実行した村だったからなのだろう。

かくしてTakeshigeスーパースタッフプログラムの第一回企画として、僕たちと武重さんとで作品の方向性についてのやり取りが始まった。誰の後ろ盾もない、製作会社もない、全くの自主制作としてのスタートだった。
しかし、僕たちが書いた企画書はまだまだ未熟なものだった。それに事実関係の調査も足りない。映画化実行に向け、補強しなければならない部分はたくさん残されていた。

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

注1=「KAWASAKIしんゆり映画祭」
神奈川県川崎市麻生区で毎年行われている、市民ボランティアによる手作り映画祭。1995年に始まり、10年以上に渡って開催。今年で12回目を迎える。初代実行委員長は映画監督・プロデューサーの武重邦夫氏。近年では地元の中学生たちによる映画制作、「ジュニアワークショップ」なども行われている。

注2=細野辰興(映画監督)
1952年神奈川県出身 横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)第2期卒業。研究科終了後、今村昌平や長谷川和彦、相米慎二、根岸吉太郎監督らに師事。1991年、「激走トラッカー伝説」で劇場映画デビュー。1996年、「シャブ極道」キネマ旬報ベストテン 弟10位。
主な作品は1994年、「大阪極道戦争しのいだれ」。2001年、「竜ニ Forever」など。最新作は2006年の「燃ゆるとき THE EXCELLENT COMPANY」。

プロローグ 第一回

誕生前夜

webサイトに制作日誌を書くにあたって、改めてこの企画の始まりを確認しようと、過去のメールを振り返ってみた。すると、初めてこの映画の企画書を提出したのは“2005年7月2日0時59分”となっている。
記者会見のときには、おぼろげな記憶を頼りに「6月の半ばだったと思います」と答えていたが、実際には思い立ってから一週間強は企画書をまとめるのに四苦八苦していたようである。
ここで、企画提出のキッカケになった出来事を振り返ってみたいと思う。

2005年初夏、日本映画学校の3年生のときにお世話になった、武重邦夫氏が主催する、“Takeshigeスーパースタッフプログラム”(注1)に所属して2年目を迎えた頃だった。
僕たちは映画学校の同期の友人・O君が、某クリエイター集団を巻き込んで計画していたフリーマガジンのプロジェクトに応援スタッフとして参加していた。
このプロジェクトは、「北海道と東京を結ぶ、コミュニケーションフリーマガジン」として企画されたもので、雑誌とwebサイトによって地域の情報を関東に発信するというのを目的としていた。しかも、ただ広告を載せたりするだけではなく、地域の隠れた情報や、その地の歴史や文化などを紐解くページを設け、地元の住民が改めて地域の魅力を発見できるフリーマガジンにしようと考えていた。また、もうひとつの要素として、クリエイターと読者が、雑誌やwebサイトを通してコラボレーションし、ひとつの作品を生み出すという「読者参加型」を目指していた。
「クリエイターばっかりで、営業をできる人間が自分しかいない。二人に手伝ってもらいたい」
O君にこのプロジェクトの話を聞いて、彼の情熱に共感した僕たちは、この申し出に即座にOKした。

6月10日、O君や某・クリエイター集団のメンバーと共に僕たちは、壮大な夢を描いて北海道・札幌へ、5日間の営業活動のために旅立った。
しかし、札幌で僕たちが目の当たりにしたのは、チーム内の人間関係によるトラブルと、打ち合わせ不足による方向性の食い違いなどによって、非常に不安定な状態になっていたプロジェクトの内情だった。
僕たちはなんとか、チーム内の問題を取りまとめ、計画を成功させようと努力したが、人間関係の確執は解決できなかった。その結果、北海道での5日間はO君の脱退と、プロジェクトの中止という深い傷を残した。未熟さゆえの挫折だった。

北海道から帰る飛行機の中、僕たちはとても悩んでいた。なぜなら、O君のプロジェクトに少なからずも武重さんを巻き込んでしまっていたからである。
O君の計画を聞き、22歳という若さでフリーマガジンを発行しようというチャレンジ精神に感動した武重さんは、このプロジェクトに色々と手を貸してくれていたのである。
「武重さんに何て言ったらいいのか……」

武重さんは今村プロダクションで、故・今村昌平監督の「復讐するは我にあり」や「楢山節考」、「女衒」などの制作に携わってきた人物だ。さらに日本映画学校の創設メンバーでもある。
そんな映画界の大先輩に、失敗の報告をするのは気が重かった。
僕たちの心と同調するように、帰ったときの東京の天気は雨だった。

数日後、腹を決めて僕たちは映画学校へ行き、武重さんに詳細を報告した。
「お前たちも災難だったよな」
武重さんは寛大に迎えてくれた。叱られるだろうとばかり思っていただけに意外だった。
ひととおり僕たちの報告を聞き、武重さんが言った。
「お前たち、フリーペーパーを一生懸命やるのもいいけど、本当にやりたいのは映画だろう。せっかくの青春の時間なんだから、本当にやりたいことに命をかけたらどうだ?」
そのときの僕たちはよっぽど疲れ果てて見えたのだろう。
「なんかいい企画があったら、企画書持って来いよ」
僕たちは嬉しかった。幾多の修羅場を潜り抜けてきた人間の懐の深さを感じた。

今思うと、まだ22歳だった僕たちに武重さんのような人がこんなことを言うなんて、普通では考えられないことだ。もしかしたら、同情からの言葉だったのかもしれない。
しかし、確かに「いのちの作法 ―沢内『生命行政』を継ぐ者たち―」はここから始まったのである―――

文・プロデューサー 都鳥拓也/都鳥伸也

注1=「Takeshigeスーパースタッフプログラム」
2004年4月、武重邦夫が“将来、自分の映画企画を実現させたい”(「監督になりたい」ではない)という、強固な意志を持つ卒業生を対象に実施した私設研究科。武重の呼びかけに賛同した、日本映画学校16期生5名によってスタート。研究生は昼にアルバイトをして、夜に講義を受けるという方式で行われた。前期は映像を利用した世界の近代史。後期はシナリオや企画立案を学ぶ。