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岩手県西和賀町

岩手県和賀郡西和賀町について

奥羽山脈の山懐に抱かれ、岩手県和賀郡西和賀町はあります。平成17年11月1日に旧湯田町と旧沢内村の町村合併により誕生した、人口約8,000人の自然豊かな町です。
町の南北を貫く和賀川は肥沃な大地を潤し、清流の代表格であるカジカやイワナ、ヤマメがたくさん生息しています。又、広葉樹と針葉樹がバランスよく混生する和賀山塊は、非常に多くの動植物が生育出来る理想的な環境でもあります。そのような豊穣な自然の中で育まれる山の幸、川の幸などの恵みを大いに受けながら、西和賀地方の人々は縄文時代から自然と共生してきたのです。
旧湯田町はかつて鉱山の町として栄え、奥州藤原氏が築いた平泉の黄金文化の栄華を支えたといわれています。又、温泉資源にも恵まれ、町の至る所に温かい温泉が点在しています。
一方の旧沢内村は農業や花き栽培を軸に、独自の保健医療福祉政策を守り続けてきた、いのちを大切にするという「生命尊重の理念」があります。
旧町村は、明治以前は「沢内通り」として一つの地域でもありました。もともと、歴史や文化、暮らしを共有してきたのです。合併を機会に、改めて、旧町村の地域理念を、東北地方に受け継がれる互恵互助の「結いの精神」で活かしていこうとしています。

生命行政について

昭和30年代の旧沢内村は天牢雪獄と例えられるほどの豪雪地帯のため、冬季は交通、産業などが麻痺状態となりました。病気や怪我をしても病院には行けず、赤ン坊や高齢者が当たり前の如く亡くなるという状態が続いていました。豪雪、貧困、多病多死という三重苦に村民は何も出来ず、死を宿命として諦めて生きていたのです。その悪循環を断ち切るために立ち上がったのが、第18代村長の深沢晟雄氏です。
「住民の生命を守るために、私は自分の生命をかけよう」
深沢村長は村民の生命を守るために、村民や職員と度重なる議論をしながら村ぐるみの努力をしました。冬季交通、医師や保健婦の確保。患者のカルテを集落ごとにまとめ、全ての村民の健康を把握するという保健医療の仕組みを築き上げました。
当時の厚生課長による乳児・老人医療費無料化の提言を全国に先駆けて英断し、昭和37年、日本で初めて乳児死亡率ゼロを達成したのです。当たり前であるはずの生命が当たり前でなくなっていた時代に、真正面から生命を見つめることによって築き上げられたのが、生命を大切にするという「生命尊重の理念」です。深沢村長は2期目を終えようという昭和40年、病に倒れそのまま帰らぬ人となりました。しかし、その後も旧沢内村は生命尊重を村是とし、西和賀町となった今日に受け継いでいます。

故・深沢晟雄 旧沢内村長について

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年頭の所感 『前向きの姿勢で』 (昭和39年1月5日 「和賀新聞」より抜粋)

政治の作用は、概括的にモノを対象とするものと、人を対象にするものとに大別することができようが、建設行政や産業行政には、たとえ不十分ではあっても、きわめて意欲的であるのに反し、厚生行政や文教行政については、はなはだ関心が低いように思われる。生命や教育、すなわち人づくりに重点を置かないようでは、結局は政治の失敗となろう。思い切って第一着手として、生命と健康については、国家は一切責任を負うことにしてはどうか。生命行政は、一切の行政に最優先させることこそ福祉国家の面目というべきであろう。所得格差を問題とするより先に、人命格差を問題とすべきであろう。

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略歴

明治38年、岩手県和賀郡沢内村生まれ。旧制二高を経て東北帝大法文学部を卒業。上海銀行を振り出しに台湾総督府を経て、中国各地業界で活躍する。敗戦後、故郷の沢内村に引き揚げる。昭和32年、沢内村長に当選。保健医療行政などに大きな業績を創り、「保健の村・沢内」を築く。昭和40年、二期目、食道ガンのため死去。

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