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「速水御舟の再来」……そう謳われた日本画界の旗手が、名古屋から妻子とともに多摩丘陵の細山へ移り住んだのは1961年1月のこと。安保闘争を中心に乱雲たなびく時代、まだ細山にはよみうりランドもなく、道路も通わず、狐狸やうさぎの棲むような農村だったという。
そんな細山で築百八十年の茅葺き農家を新居とした画家の名は、中村正義。36歳という異例の若さで日展審査委員に推挙されたのはこの前年である。すでに日展での特選をはじめ数々の賞に輝き、まだ顔料も乾かない作品を、押しかけた画商たちが争うように買い取ってゆく人気ぶりだった。
ところが細山へ移ってまもなく、正義は師・中村岳陵に反旗を翻し、日展からも脱退してしまう。
中央画壇の寵児としての自らを、約束された輝かしい将来もろとも葬り去って、中村正義の「創造者」としての闘いが、草深い武蔵野の里山で幕を開けたのである。

病と戦火

愛知県豊橋市の老舗こんにゃく問屋「織九」が、八番目にしてようやく授かった男子は、生まれながらに病弱だった。命名「正義」。昭和という激動の時代が、まもなく明けようとしていた。
胸の患いは「国民病」で、人生40年と言われていたころである。外で元気に遊び回る友だちを横目に、寝屋で一人お絵描きにふける正義少年。家の中には、父の道楽の書画骨董があふれていた。
入退院をくり返し、16歳で学校中退を余儀なくされた正義は、療養のかたわら水墨画や膠彩画の師匠について、本格的に絵筆を取るようになる。折しも太平洋戦争が勃発し、世の中は戦時色に塗りつぶされていった。病気、そして戦争……日常が人の死と隣り合う世界で育まれた死生観は、現代のわたしたちには想像もできない。ただ中村作品から立ちのぼる、命の質量に後ずさるばかりだ。

正統を極めて

病によって学業の道を閉ざされ、戦時下にその憂さを忘れさせるものは、ただ描くことばかり。ひたむきに描きつづけ、道を同じくする幾人かの仲間も得た。終戦を迎えると、正義は画家として身を立てんと決意する。
46年、日本画壇の中心にいた中村岳陵へ入門を許されるや、その年には早くも日展での初入選を果たす。すでに父はなく、母が末子の行く末を案じながら亡くなった数ヶ月後のことだった。
「親爺とおふくろに喜んでもらいたい涙がとめどなく流れ流れて、特選になったのです」(中村正義著『創造は魂なり』より)
戦火によって多くの担い手を失った画壇は、新たな才能の登場に沸き返った。毎年のように院展や日展に入選し、中村正義の名は高まっていった。そして52年、第8回日展にて『女人』が念願の特選。朝倉賞、白壽賞も受賞し、文化庁の買い上げとなる。少年のころ、病というものが正義に絵筆を取らせた。というより、それ以外のものを奪い去ったと言ってよい。ところがこれに打ち込もうとすると、しばしばその絵筆さえも 奪っていくのだ。とくに日展特選を果たした直後からの3年あまりは、ほとんど制作活動を中断。絵画のほかにも、立ち向かわなければならないものがあった。
やがてターニングポイントが訪れる。長い療養所暮らしを終えるとともに、生涯の伴侶も得た正義は、長女倫子の誕生を機に、上京して胸部の大手術を受けた。結婚してからも寝込みがちだった正義は、見違えるほど元気になった。61年に川崎市へ越したのは、主治医から「私のそばにいなくてはだめ」と諭されたからだ。
そしてこの転居が、彼自身の大きな転機ともなってゆく。「速水御舟の再来」から、中村正義という、唯一無二の作家へ……。

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新天地

「まったく売れなくなるかもしれない。それでもよいか?」
細山に落ち着いてほどなく、正義は妻あやにそう尋ねた。
既成の枠組から飛び出したい、決まりごとを破って、もっと大らかに描きたい……突き上げてくる創造への情熱は、病魔を克服することで一気にあふれ出したようだ。
自分が本当にやりたいことを押し殺して、ただ師の教えに従うとしたら、それは芸術家ではなく職人の仕事であろう。洋画では十人十色の個性と手法が、常識を覆しつづけているというのに、なぜ日本画の世界は、徒弟制度や因習にこだわるのか……37歳が下した結論は、岳陵門下からの離脱と、日展脱退だった。細山の泥道に、画商たちのクルマが列をなしていた、そのさ中である。
折しも世の中は、体制に抗する革新運動たけなわで、文化面でも実験的、前衛的なウェーブが、あらゆるジャンルのアートに湧き上がっていた。
「権力への憎悪は、私をとらえて離さない」(前述の著書より)
この思想は、終戦を境に価値観をすっかり覆された人々が共有したものであると同時に、学校中退を理由に美術専門学校入学を拒まれた、個人的な体験にも根ざしているに違いない。
既存のシステムを壊すこと……それは何よりもまず、自分自身の既成概念を、積み上げて来たものを破壊してしまうことだった。こうして従来の装飾的な写実画とは対局を成す、作家が本当に描きたい絵が、細山のアトリエで次々に産み落とされていった。
原色をためらいもなく多用し、デフォルメされた「顔」のシリーズ、「舞子」のシリーズ。表層を剥がして、赤裸々な内面をえぐり出すような表現だった。手法においては、 膠(にかわ)の代わりにボンドを用いて蛍光塗料を配合したり、油絵の具やアクリル絵の具、ペンキに灰と、何でも使った。
この変化に、あれほどもてはやした画壇やメディア、ファンたちも、潮が引くように離れていった。しかし、たくましくなった正義は、むしろ嬉々として新しい道を切り開いてゆくのだ。画商に売るだけが生計の道ではない……映画や舞台の美術、雑誌の表紙画、テキスタイルの原画。はては住宅の新しい工法を編み出して、特許まで取得してしまう。根強い人気に後押しされて、ロンドンで個展を開くなど、本業においてもどんどん活動領域を広げていった。
豊橋で毎年のように日展入選を続けていた51年のころ、彼は己一人の躍進では飽き足らず、大人から子どもまで学べる日本画塾を地元に発足したことがある。若い画家たちが 講師として生計を立てられるようにしたのだ。東三河地方に時ならぬ日本画ブームが興り、その画塾は今も有志によって続けられているという。
そして細山で自由な創作活動をはじめると同時に、日本画に革新的なウェーブを巻き起こすべく、正義の発案で「日本画研究会」が発足。オブザーバーに著名な洋画家、音楽家、建築家、デザイナーらを迎え、その大規模な活動は中央画壇を揺るがしていった。このような強い社会意識によって、「孤高の」画家は、終生多くの同志たちに包まれていた。

晩年

「ふわっと、恐怖は、私を無限のそこなしの沼にひきこんで行くかのようであった」(同著書より)
1967年、42歳になった正義は、自分が直腸がんであることを知る。慌ただしく飛びまわるうちにも、新たな病が正義の体を蝕んでいたのだ。
それからというもの、死の影に怯え、精神的にも肉体的にものたうち回りながら、残り少ないであろう余生にやっておくべきことを考えた。当時正義には画業のほかにも、やり遂げておきたいことがいくつかあった。そのひとつが「写楽研究」のまとめである。東洲斎写楽とは何者か?……ひところブームにさえなったそのミステリーに、ほかの研究者とは違った日本画家の視点から興味を惹かれ、正体を探るリサーチを進めていた。そして、古来の描法を極めた画家にしか判別できない技術上の分析によって、一人の蒔絵師にたどり着く。写楽が残した膨大な錦絵、浮世絵には、商業デザイナーが制約から解き放たれて、自由に描くときの高揚感が躍っているというのである。それはまさしく、細山へ移ってからの正義自身。そこから導き出した答えだった。
昭和の先鋭的な画家と、江戸中期の絵師が、重なったーー。
まとめあげた『写楽』を出版し、グループ展の開催や、美術展への出品、後進の育成に務めつつ、最後の十年を、正義は生きた。後に残される家族のためにも、絵を描きつづけた。生涯の仇である病魔との、最後の闘いを、壮絶に闘いながら……。
77年4月、中村正義は聖マリアンナ医大病院で、家族に看取られながら52年の生涯を閉じた。細山の自然に囲まれて、異端と呼ばれながらも自由に羽ばたいた15年間。それは人生の晩年であるものの、創造者としての青春でもあったに違いない。「中村正義の美術館」を訪ねれば、展示されたたくさんの作品の中に、昭和の絵師の高揚が躍っているだろう。

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