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「たけしげ君、僕はな、今村昌平さんと写楽の映画をやりたいんだよ」
中村正義さんは、独特のかすれ声で静かに言われました。
43年前、新宿西北ビルの喫茶店“花”でお会いした時のことです。
当時、中村さんは癌を抱えながら、尚も果敢に日本画壇と闘い続けていました。
僕は喫茶店でよくお話を伺ったのですが、静かな口調の中に熱いものが煮えたぎっているのが感じられ、ドキドキしながら聞いたものです。
中村正義43歳、今村昌平41歳、僕が28歳のころの話です。
しかし、今村プロは再建のためTVの海外ドキュメンタリーで多忙を極め、中村さんは52歳で早世されて映画は実現しませんでした。

2006年初夏に今村さんが他界した後、僕は2人の約束を思い出し、 「中村正義の美術館」へ足を運ぶようになりました。僕も70歳間近になり、生きてるうちに中村正義の静かで苛烈な生涯を記録に残しておきたいと思ったからです。しかし、中村さんの仕事も生き様も多様で膨大で取っ掛かりが見付かりません。表現者を表現する難しさでもあります。そんな或る日でした。息女の中村倫子さんから渡された画集を見ていると、まるでイラストレーションのように描かれた三島由紀夫の顔に出会いました。青を基調に一気に描かれた不思議な感じの絵でした。その絵を見たとき、僕は直感的に中村正義の映画を作れる。作ろうと心を決めたのでした。根拠は誠に希薄ですが・・映画作りはそんなところから始まるものです。

中村正義を考えるときに、日展の脱会は彼の画風の分岐点でもあり、その後の孤独な闘いを通じ独特の顔のシリーズが本格化していきます。自己を凝視し掘り下げていく恐ろしい作品です。こうした芸術家の姿は家族には辛いものです。しかし、心配する家族に中村さんは、「僕はね、あたり前の事を、あたり前に言ってるだけだよ」と仰っていたそうです。また、僕が細山のアトリエに遊びに行ったとき、こんなことも言われました。『日展から文化勲章を取って芸術院へ行く、すると画の値段が数倍あがるんだ。死ぬまで恩給ももらえる。絵画の価値が肩書きで決まるんだよ。こんな馬鹿なことは世界中で日本だけだよ』映画界では想像もつかない話なので、僕は驚いた事を覚えています。

先日、11月24日の朝日新聞に「形骸化した芸術院」「意味を失った画壇、文壇」と紙面半分の大きな見出しの記事が出ていました。僕はその記事を読みながら、中村さんの吸い込まれるような透徹な眼を思い浮かべました。確固とした信念を持ちながら、受け入れられない時代に生きた中村正義という天才芸術家の孤独の深さです。ともすれば揺らぎそうになる心を、己の中に追い求めた苦悩に満ちた正義の自画像です。中村正義は30年、50年先を見詰めていたんだ・・。そう思って改めて自画像を見ると、キャンバスに原色で描かれた眼は更に先の、更に深い地点を見詰めていることに気付かされます。

中村正義は目線の先に何を観ていたのか?
彼の死後、自宅を「中村正義の美術館」に改装して父親の画を守り続けてきた館長の中村倫子さんに訊ねたことがあります。しかし、倫子さんも明確には分らないと言われます。急速に流れ移る時代の波に逆らうように、正義の画を必死に展示し続けてきた彼女にはそんな余裕はなかったに違い在りません。昨年、倫子さんが正義の没年を越えたのを機に、僕は倫子さんと共に正義の創作の生涯を辿る旅を提案しました。彼女にとっては愛する「父をめぐる旅」ですが、僕ら中村正義の画に惹かれる者にとっては、自由で豊穣でダイナミズ溢れる日本を再発見する旅になるはずです。

『たけしげ君、人間は全て芸術家なんだよ。芸術は人間の生き方、情熱から迸る飛沫なんだよ』若い日、中村正義さんが何気なく言われた言葉が忘れられません。僕らを勇気付けてくれる、“にんげん”の言葉です。

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「写楽」を話し合う今村昌平、フランキー堺、中村正義

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1973年頃 「顔」

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中村倫子さん