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小田急線の読売ランド駅から読売ランドへ行く途中、左手の細山丘陵に向かうと小さな白い美術館が見えてきます。
異端の日本画家、中村正義さんの美術館です。
僕らが住む川崎市麻生区の誇り、珠玉のギャラリーです。
中村さんが亡くなられた後、ひとり娘の中村倫子さんが美術館を建て正義さんの絵を守っておられます。

35年ほど前、まだ、このあたりは静かな里山の深い森でした。
中村正義さんは大きな茅葺民家を借りて、住宅兼アトリエにしていました。
30畳くらいの板張りのアトリエには所狭しと画材が散らばり、その中で中村さんは座って絵を描いておられました。
筆を口に加え、一心にキャンバスを見つめる姿が今でも瞼に浮かんできます。

中村正義は戦後の日本画界に彗星のように登場した天才画家です。
1924年に愛知県豊橋市に生まれ、中村岳陵に師事し、36歳で日展の審査員に抜擢されました。
しかし、1961年、中村正義は師匠の岳陵に反旗を翻し日展を脱退しました。
日本画画壇の古い徒弟制度や因習を打破しようと、熾烈な戦いを挑んだのです。
映画界でも、丁度、ヌーベルバーグが出てきた頃のことです。

僕が初めて中村さんにお会したのは1967年のことです。
新宿のノーベル書房の社長室に遊びに来られて、今村監督やフランキー堺さんと写楽の映画を作ろうと燃え上がっていました。
中村さんは東洲斎写楽の研究家でもあり、徳島の阿波文楽人形にその源があると考えていました。フランキー堺さんも写楽研究家として有名な人でした。

当時、中村さんは癌を抱えながら、尚も果敢に日本画壇と闘い続けていました。
喫茶店でよくお話を伺ったのですが、静かな口調の中に熱いものが煮えたぎっているのが感じられ、ドキドキしながら聞いたものです。
それに中村さんは凄い美男子です。知性的な彫りの深い顔には、優しさと激しさが混在し不思議な魅力を醸しています。
「たけしげ君、僕はな、今村さんと写楽をやりたいんだよ」
独特のかすれ声で言われると、思わず加勢したくなるカリスマ性を持った人でした。

東洲斎写楽は江戸時代に彗星のごとく現れ、度肝を抜く作品を残し、短期間に消え去った謎の浮世絵師です。
なぜ謎かと言えば、写楽に関するデータが皆無でどんな人物か分らないのです。
写楽とは一体誰なのか? 明治時代から議論されてきたのに判明していません。

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「写楽」を感じ興奮する正義、右手の暗部に録音担当の武重がいる。

絵師としての技量が余りに秀でているために、北斎や歌麿など浮世絵の大家がペンネ ームで描いたのではないか? 当時、そうした説が有力でした。
一方、中村正義さんは画家として写楽を研究し別な仮説を立てていました。
今村監督と組んで、映像で実証的に写楽の謎に挑もうとしたのです。
しかし、今村さんは借金と女性問題で火の車、おいそれと動けない状況でした。

今村さんが腰を上げないので、中村さんは自ら記録映画の制作にかかりました。
今思えば、癌を抱えた中村さんには今村監督を待つ時間が無かったのでしょう。
しかし、素人の中村さんが映画を撮るのは到底無理な話です。
そこで今村さんは、僕らゴロツキ・スタッフを中村さんに付け届けたのです。

カメラマンは後に『楢山節考』を撮った栃沢正夫、録音は僕が担当しました。
助監督には藤田傳(現在・劇作演出家、劇団1980主催者)、制作進行には長谷川和彦(現在・映画監督)というメンバーです。
今日振り返れば、中村正義監督をはじめとして豪華だが危険極まる撮影隊でした。
それかあらぬか、中村監督は初日から暴走し・・自ら退路を断つ羽目に陥ります。

撮影は東京の写楽研究家を訪ねるところから始まりました。
まず最初に訪問したのは、写楽の正体を葛飾北斎と考える大学教授のお家です。
この方は写楽研究者として名高く、いわば、オーソリティーと目されていました。
朝10時、中村監督は僕らゴロツキ・スタッフを率いてのクランクインでした。

中村さんと老教授はニコニコ談笑しながら、ライテイングの準備を待ってます。
「OKです。どうぞ始めて下さい」藤田傳助監督が声をかけます。
いよいよ、インタビューの始まりまりです。
この日のテーマは、教授の北斎説をじっくり聞き収録する事でした。

しかし、5分もしない内に中村さんは北斎説の矛盾について質し始めたのです。
彼はカバンから写楽絵の目や眉毛を集めた資料を取り出し、北斎の人物絵と比較して類似性のないことを証明し始めました。
こうした技術的実証は中村さんが画家だからこそ出来る事です。
応える教授の顔がこわばり、声のトーンが次第に上がっていきます。
それまでの友好的な雰囲気は消え、室内はヒンヤリとした空気に包まれます。

『まずいな、これ』レシーバーから聞こえる教授の声は今にも爆発しそうです。
中村さんの方は静かな声だが、凄みのある三白眼で教授を追い詰めて行きます。
これはインタビューでありません。中村マングースと大蛇教授の格闘です。
栃沢カメラマンは長いズームレンズで威嚇すように教授に迫るし、助監督の藤田傳も制作進行の長谷川和彦も、けしかけはするがブレーキを掛けようとしません。
挙句は、教授が蒼白になり黙り込み、僕らは退散する羽目になってしまいました。

「先生、あれじゃ、インタビューになりませんよ」
「まずかったかね。今度はじっくり相手の意見を聞くよ」
中村監督は頷いたが、美しい顔に三白眼が不気味に光っていて安心できません。
どうも長い闘争の末、権威的な者には立ち向かう習性がついてしまったようです。

次のインタビューも初めは良かったが、直ぐ中村さんは暴走し追い返されました。
翌日になると、中村撮影隊の噂は研究者に広がり、誰も取材を受けてくれません。
「困ったなあ」そう言いながらも、余り困った様子ではないのが中村さんです。
10日後、彼は僕らを引き連れて阿波徳島の山中へ飛んだのでした。

徳島の山中の文楽村廻りでは、中村さんは本当に幸せそうでした。
村の人たちが蔵から出してくる人形を、彼は舐めるように眺め慈しんでいます。
短い滞在でしたが、彼の人生で最もリラックスした時間だったように思います。
これが中村正義さんと僕らの、最後の撮影になりました。
僕らが海外ドキュメンタリーの仕事に着いたのと、中村さんご自身が「人人展」の発足準備に忙しくなられたからです。

中村正義さんは1977年、肺癌で亡くなれました。まだ、52歳の若さでした。
お互いに多忙な身でしたが、僕はその間、2度ばかり中村さんとお会いしています。
最初は72年にボルネオから帰ったときでした。ご自宅に遊びに行くとアトリエ一杯に赤や青の「顔」の絵が並べられ、中村さんは三白眼を光らせ絵筆を動かしていました。

「たけしげ君、好きなの持って行って良いよ」中村さんは優しい笑顔で言います。
「いや、こんな大切な絵、いただけませんよ」
今思えば残念でなりません。しかし、赤や青で描かれた「顔」は子供の絵のように不気味で僕には馴染めなかったのです。
それに、若い中村さんが急逝するなどとは想像だにして居ませんでした。

2度目は亡くなる1年前、中村さんの八重洲口のビルを訪ねました。
映画学校が倒産の危機に見舞われたときの事です。
僕は名古屋の自宅から持ってきた伊東深水の絵を鑑定して貰おうとしたのです。
しかし、結果は偽物で、僕は恥ずかしさの余り逃げ帰りたい気持ちで一杯です。
そのときでした。中村さんが真面目な顔で「たけしげ君、金が必要なんじゃないか?」と聞いてこられたのです。

「いいえ、お金は大丈夫です」喉から手が出る気持ちでしたが、僕はそう答えていました。金を借りた途端、僕らの関係ががらがらと崩れ去るように思えたからです。
「困ったときは、遠慮せんでいつでも来なさい」
中村さんは頷いて外まで送ってくれました。それが僕の見た中村正義の最後でした。

18年後の1995年、僕は「しんゆり映画祭」を立ち上げたのがキッカケで、中村さんのご自宅が美術館になっている事を知りました。
ご家族が豊橋へ帰られたものと思ってたので、ビックリして細山へ伺いました。
それが僕と「中村正義の美術館」との、新しい出会いの始まりです。

昔、僕が伺った時におかっぱ頭をしてた倫子さんが、中村正義のための美術館を建てられ館長を務められていました。
僕は、時おり美術館を訪ね、中村さんの「顔」とお会いします。
あの「顔」は、知的でハンサムだった中村さんとは思えない自画像です。
しかし、何度も見ているうちに、何時も真理を求め闘い続けてきた孤独な芸術家の深い悩みや悲しみが感じられ胸が痛くなります。
創作者や表現者が、地表を貫き進んだ末に尽き当たる岩盤の不条理です。

「中村正義の美術館」は細山の森にひっそり佇む、アーチストの魂の居場所です。 僕はゼミの学生を連れて行きますが、彼らが魂を感知するのは数年先でしょう。
でも、学生たちが表現者になったとき、苦しみに突き当たった時に、「中村正義の美術館」を思い出してくれればそれで良いと思っています。
「中村正義の美術館」は、僕ら表現者の掛け替えのない魂の居場所です。

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映画『怪談』用に創作した大作の前での充足した表情。

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