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今村監督が中村正義氏と出会ったのは、昭和42年(1967年)の5月頃だった 当時、今村プロの事務所は新宿区役所通りの西北ビルに在り、今村さんは映画『人間蒸発』の仕上げの準備中だった。この西北ビルの2階にノーベル書房という出版社があり、今村監督は社長の山本一哉さんから中村正義さんを紹介されたである。「中村さんは、『怪談』(小林正樹監督作品)で壇ノ浦の戦いを描いた画家でね、凄い目をした美男子だ。一緒に写楽を映画にしようと盛り上がったよ」。事務所に戻ると、今村さんは僕らに上気した顔で話した。「あの人は本物の画家だね・・」。今村さんの呟きには、中村正義氏に対する畏敬の念が感じられた。こんなことは珍しい。居合わせた僕らは驚いて顔を見合わせたのを覚えている。

今村さんは江戸の庶民文化に興味を持ち、時間があると、「写楽」や「ええじゃないか」の資料を読みふけっていた。双方とも、江戸文化の深層を読み解く異端、謎だったからである。日本の土着の基層文化を掘り下げ、『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』を作ってきた今村さんだが、一方では、現代の日本人のメンタリティが江戸庶民 の文化の中で形成されたのではないか、と模索していた。実際、江戸文化は固有のも のではない。徳川の開幕と共に武蔵国と下総の原野に日本全国から土着文化が流入し、煮えたぎった「るつぼ」状態から独特な文化が醸成されてきたのである。特に顕著なのは、武家の支配が終わり商業中心とした町民文化が台頭しはじめてからの「江戸ルネッサンス」であろう。権力は秩序を守ろうと庶民の欲望と自由への希求を押さえ込むが、時代の流れに抗い切れずやがて幕末を迎える。

「理性やイデオロギーは抑えられても、人間本来の欲望はどんな弾圧をも乗り越えて時代を作ってしまうんだよ。だけど、欲望はいつも秩序に対する異端と看做され弾圧され続けてきたんだな」。
今村さんは欲望をよくアメーバーに例え、俺はバイキンの映画を作っているんだと僕らを笑わせていた。一方、中村正義氏が写楽の研究を始めたのは1964年の『怪談』の頃だといわれている。日本画家の中村正義氏が「写楽」に興味を持つのは当然だと思われるかも知れないが、実際はそうではない。浮世絵は氏が育った日本画の世界では、正統から外れる異端の存在とされていないからだ。したがって、中村正義が異端の世界に惹かれて行くのは61年の日展脱会に起因していると考えられるが、68年に作られた『日本の華』(小川益生監督)を観ると、氏が浮世絵を生み出した江戸 の町絵師たちに強く心を寄せていることが分り面白い。現在では信じられないことだが、当時の町絵師達は異端者だと看做され、弾圧され処罰され島流しにされている。 そう言う意味では、日展に反旗を翻したがために個展の開催を妨害され続けた中村正義もまさに異端者であり、1960年代の町絵師だった。

あの頃よく、中村正義さんはノーベル書房の社長室で今村監督や俳優のフランキー堺さんに囲まれて写楽の映画の相談をしていた。フランキー堺さんも写楽の熱烈なファ ンで、研究家としても有名な人だ。僕も時折り同席したが、印象的だったのは、巨匠の今村昌平と大スターのフランキー堺が中村正義さんの前では弟子のように教えを請う姿だった。「俺はこうしたいんだ」今村さんに言われると誰も抵抗できない。そのパワフルな説得力の重圧を恐れ、日活の重役達は必ず複数で今村監督との交渉に臨んだのは有名な話だ。しかし、中村正義さんとの会合では逆だった。「そりゃ違うよ、 今村さん」と中村さんに言われると、「う~ん、そうですかね」と今村さんは頷いて考え直す。僕には信じられない驚くべき光景だった。中村さんの声は静かだが、独特の鋭い三白眼でじっと見られると誰もが金縛りになってしまうのだろうか・・。とは言え、「写楽」を語り合う3人は実にリラックスして楽しそうだった。

1960年代は、日本の文化が物凄いエネルギーで変わっていく、まさしく沸騰した時代だった。
その中で、今村昌平と中村正義は互いに時代の変革に取り組んだアーティストであった。今村さんには、「俺はそうしたいから、やるのだ」という強烈な信念と意志力があり、中村さんは、何時も「当たり前の事を、当たり前に言おう」という生き方を貫 いていた。こうした2人のあり方は現実の社会では異端であり、自ら困難な道を選んで生き抜くことでもあった。もうひとつの共通点は、中村さんは今村さんより2歳上年長だが、同世代であり共に多感な青年期に戦争を体験していることであろう。15歳年下の僕らも60年安保の世代ではあるが、同じ60年の文化革命に身を晒したといえども、戦争の破壊と死を見つめてきた人たちの奥行きの深さには到底太刀打ちできるものではない。つまり、創造の根底には死生観が伴うからである。

今村さんは中村さんと「写楽」の映画化を約束したが、中村さんが52歳の若さで亡くなったので実現できなかった。その今村さんも2006年に他界し既に4年になる 。中村正義さんも今村さんも凄く魅力的な人で、27歳の僕には眩しいくらい輝いていて見えた。あれから40数年たったが、あの2人に勝る魅力を持った人には会ったことがない。いま、今村さんの助手だった僕は中村さんの息女倫子さんと一緒に、映画『父をめぐる旅』の制作に取り組んでいる。『写楽』ではないが、これは43年前のノーベル書房の応接室が取り持つ縁なのか・・ひとの人生とは何処までも不可思議である。

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在りし日の中村正義さん

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今村昌平、フランキー堺、中村正義

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中村正義の息女・中村倫子さん

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■今村昌平(いまむらしょうへい)/映画監督、脚本家
1926年9月15日、東京生まれ。早稲田大学文学部を卒業。松竹大船撮影所に入社。『楢山節考』(1983年)と『うなぎ 』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度最高賞 (パルム・ドール)を受賞するという快挙を成し遂げた(他にフランシス・フォード・コッポラ監督など5名がいる)。

■主な監督作品
『盗まれた欲情』(1958年)
『西銀座駅前』(1958年)
『果しなき欲望』(1958年)
『にあんちゃん』(1959年)
『豚と軍艦』(1961年)
『にっぽん昆虫記』(1963年)ベルリン映画祭主演女優賞
『赤い殺意』(1964年)
『エロ事師たちより 人類学入門』 (1966年)
『人間蒸発』(1967年)
『神々の深き欲望』(1968年)
『にっぽん戦後史』(1970年)
『復讐するは我にあり』(1979年)
『ええじゃないか』(1981年)カンヌ映画祭招待作品
『楢山節考』(1983年)カンヌ映画祭パルムドール
『女衒 ZEGEN』(1987年)カンヌ映画祭コンペティション
『黒い雨』(1989年)カンヌ映画祭高等技術委員会グランプリ
『うなぎ』(1997年)カンヌ映画祭パルムドール
『カンゾー先生』(1998年)カンヌ映画祭招待作品
『赤い橋の下のぬるい水』(2001年 )カンヌ映画祭コンペティション
『セプテンバー11 日本編』(2002年)